2012年7月8日日曜日

『エウレカセブンAO』第6話「ライト・マイ・ファイアー」

ゲネラシオン・ブルへと向かう道路の中央分離帯を、ひとりの少年が歩いてくる。ふと立ち止まると、指を拳銃の格好に構えて、狙いをつける。「バーン」。少年がそう呟くと同時に、道路の先にあった警備室が音を立てて爆発する。
「何者だ」。負傷した警備員が声をかけた相手は、すでに少年から中年の戦士へと姿を変えている。横切る煙とともに、彼は美女に、そしてサラリーマン風の東洋人へと姿を変える。そして彼(彼女)は、再び巻き上がる爆炎とともに、こう告げる。「あえて名乗るなら俺の名は……今このときから、トゥルース(真実)だ」。

第6話「ライト・マイ・ファイアー」の最後のシークエンス――主人公・アオの敵となるであろう謎の男“トゥルース”が、初めて自分の名前を名乗る場面を見ていて思いだしたのは、『UN-GO episode:0 因果論』の世良田蒔郎――というよりは、彼が日本に連れてきた人知を越えた存在“別天王”のことだった。
もちろん、『因果論』の脚本を手がけた會川昇が『エウレカセブンAO』に参加している(肩書きはストーリーエディター)ことが、この連想の裏にはある。しかし、誰かの姿になりすますことの呪わしさ、そしてなにより、その呪わしい彼が「自分こそが真実(トゥルース)である」と主張することが、2つの作品を結びつけたのだと思う(ちなみにこの第6話の脚本は、猪爪慎一による)。



『UN-GO 會川昇脚本集』に収録された初期プロットによると、會川は当初、『UN-GO』の主人公・結城新十郎をテレビ局員に設定しようとしていた。最終的にそのプランは放棄され、新十郎は「最後の名探偵」を自称する――言い換えれば、アイデンティティ喪失者として描かれ、そしてそのことは『UN-GO』に少しばかりデカダン風味を付け加えることになるのだが、いずれにしろ、會川は『UN-GO』のなかでたびたび、「メディア」をめぐる問題を取り上げている。
劇中に顔を出す「新情報拡散防止法」は、まさにネットワークという「メディア」に政府が介入する方策を定めたものだし、また第2話「無情のうた」では、メディア上から抹殺されたアイドル(偶像)をめぐる事件が描かれる。そもそも、新十郎に相対するもうひとりの探偵、海勝麟六は、巨大ネット複合企業の総帥でもある。

なにより象徴的なのは、『因果論』およびテレビシリーズ終盤に登場し、本シリーズ最大の敵として新十郎の前に現れた“別天王”だろう。幼い子供の姿をした彼(?)は、世良田とともに帰国した後、日本を戦争へと駆り立てるために、テレビや新聞など、マスメディアを通して偽の情報を流し続ける。しかも別天王自身には、悪意も善意もない。彼女は、術者が口に出したことを「真実」にしてしまう――たとえ、事実がそうでなかったとしても、彼女を通せば、若者たちはテロリストに拉致され、殺されたことになってしまうのだ。

それは、まさに私たちの知っている「メディア」そのものの姿にほかならない。

そもそも「メディア(媒体、媒介物)」とは何か。字義的には、情報の仲立ちをするもの、ということになるだろう。事実そのものではなく、事実を誰かに伝えるための「手段」。そこで、事実は(そこに含まれる情報は)劣化し、歪められ、物語化されて、伝えられる。
メディアが伝えるものが――媒介というその性質そのものによって――「本当のこと」から変質してしまう、ということ。というよりも、「変質してしまっているのではないか?」と、受け取った人が感じてしまうこと。わたしたちはそのような状況に、どのように立ち向かうことができるのか……。これこそ、『UN-GO』が一貫して問題にしていた、隠されたテーマのひとつだったように思う(ちなみに、結城新十郎と行動をともにする因果は、無理矢理、相手から「真実」を引き出してしまう“怪物”である。彼は、媒介(メディア)抜きで、真実へとたどり着いてしまうのだ)。

(※またトゥルースに囚われたナルは、巫女の能力を持っているらしいことが示唆されている。「巫女」は、英語で「ミディアム(mediam/メディアの単数形)」である)



『エウレカセブンAO』について書くつもりが、随分と寄り道をしてしまった。つまるところ、別天王が「メディア」であるとしたら、トゥルースは「われこそが真実だ」と主張する者である。その2つは、よく似ているようでまったく違う。なによりトゥルースは、ガゼルたちの属する世界が虚偽であることを告発し、シークレットたちが巻き起こす騒乱に、そしてなにより、「もうひとつの世界からやってきた」宇宙人、フカイ・アオに「真実」を見る。

しかも第12話では、空から垂直に世界を貫き、スカブコーラルを発生させる「光」が、「もうひとつの世界」からやってきたものらしいと示唆される。トゥルースの言葉をそのまま鵜呑みにするならば、『エウレカセブンAO』の世界は「偽物」であり、天から降り注ぐ光の向こうにこそ、「真実の世界」があるのだ(しかも第11話のエレナの回想のなかで、その「真実の世界」が最初のテレビシリーズと繋がっているらしいことが推測される。月面に刻まれたエウレカ&レントンの文字!)。

……だが、それは「本当」だろうか? ここで私たちは、劇場版『ポケットが虹でいっぱい』を思い出すべきだろう。
テレビシリーズの素材を使いながら、まったく異なる「エウレカとレントン」の物語を紡いだこの劇場版では、「ただひとつの正しい物語」があるのではなく、「いくつもの物語がそれぞれに共鳴しながら軌跡を描く物語」が描かれたのではなかったか。「ただひとつの真実」ではなく、いくつかの(それぞれが物語として語られた)出来事が、互いに衝突し、ひとつの場=作品をつくること。
トゥルースという、これまでの『エウレカ』にはなかった存在の、あまりに魅力的な振る舞いを見ながら、『エウレカセブンAO』は、なにかそういう場所を目指しているような、そんな予感がする。
脚本/猪爪慎一、絵コンテ/成田歳法・村木靖・京田知己、演出/三浦陽、作画監督/永作友克・嘉手苅睦。

2012年5月12日土曜日

『坂道のアポロン』第5話「バードランドの子守唄」

『坂道のアポロン』を観るのは、「光」と「影」の愉楽に身を委ねる体験でもある。

この作品ではすべてのシーンで、キャラクターの影(とハイライト)にグラデーション処理がかけられている。それゆえに画面全体がソフトフォーカスがかかっているような、柔らかな印象になっているのだが、しかしより大切なのは、その「グラデーション処理」によって、各シーンごとに設定されている「光」の演出に、自然と意識が向くよう、仕掛けられていることにある。
例えば、カーテンの閉められたムカエレコードの店内は薄暗く、でもカーテンの向こう側には淡い太陽の光が射している……というように。あるいは、蛍光灯のついていない教室に差し込む、鮮やかな太陽光。そして、母親との再会の場面として誂えられた銀座のレストランの、温かな光。影と光の境目をぼかすことで、むしろ巧妙に配置された影と光の美しさに、思わずうっとりする。
特にこの第5話のように、「演奏シーン」というスペシャルカットのない、逆に言えばただただリッチなシーンがない回だと、その「光」と「影」の交差はより一層強く印象に残る。

そして、この第5話の基本をなしているのは、「2人とひとり」という構図の繰り返しにある。
薫と千太郎の妹の会話を聞く律子、そして薫と律子の会話を盗み聞きしてしまう千太郎。あるいは、レコードプレイヤーの前に座る千太郎と百合香に対して、後からそこに加わる淳一。あるいはまた、東京駅のホームで待っている薫の母と千太郎に対して、遅れてやってくる薫……。
繰り返し出てくる「2人とひとり」の構図が、数珠繋ぎのようにエピソードを繋いでいく。
脚本/加藤綾子、絵コンテ/宮繁之、演出/山岡実、作画監督/青木一紀。

『AKB0048』第2話「選ばれし光」

悪くない。

どこかで何かが決定的にずれ、失調しているような気がしてならないのだけれど、それでも「悪くない」と思わされてしまうのは、この『AKB0048』という作品が絶妙なところで「悲劇」と「メロドラマ」をバランスさせているからなのだろう。

「メロドラマ」とは、端的に言えば「人間たちのドラマ(劇)」である。メロドラマは登場人物たちの感情を燃料に、それが到達できる最長不倒距離を目指して、ただひたすらに、地平線の向こうへと(水平に)ドライヴしていく。
一方、「悲劇」とは「世界をめぐるドラマ (劇)」である。ある意味、それは世界の「原理」をめぐって交わされる怒りと抵抗の交差であり、また天から垂直に射す光、希望と歓喜の力をめぐる詩でもある。

『AKB0048』において、AKBは人知を越えた――言葉通りの「偶像」の位置にある。彼女たちは「目指すべき高み」に君臨する存在であり、また人々の欲望を「上」から照らす光として描かれる。

先日、大田俊寛『オウム真理教の精神史』を読んでいて、そこでは「神」の起源を、共同体を支える「虚構の人格」にあったのだ、と述べられていたのだが、その意味において、この作品におけるAKBはまさにフィクション(虚構)として、人々の「希望の光」なのである。
そして、この世界において「芸能」が禁止されているのは、故ないことではない。
「芸能」は単なる、余暇を埋める手遊びなどではなく、人々の生を祝福する、なくてはならない「光」であり、それゆえに、この世界を律している政府(あるいは国家)は、その充溢した力を恐れ、AKBを「テロリスト」と認定するのである。

そんなふうに考えると、AKBの襲名メンバーたちがズラリと並んだ姿は、どこか曼荼羅のようにも見えるてくるから、不思議だ。
また第2話で登場した園智恵理をAKBへと導いていく、小さな光の生物は、まるで「天使」のように見える。光を発し、少女たちを「芸能」へと導いていく存在。それは、AKBに人知を越えた力を授け、また周囲を明るく照らし出す。
……と、ここだけ抜き出せば、『AKB0048』はまるで、聖書にでも出てきそうな「悲劇」のように見える。がしかし、決してそんな「悲劇」へと物語は集約しない。例えば第1話では、少女たちの旅立ち――新たな場所へ向かうことの不安と期待が描かれ、また第2話のメインモチーフとなっているのは、主人公・本宮凪沙と智恵理の再会、そしてライバル関係が暗示される。
そこで描かれているのは、ほとんど、どこかで見たことのあるドラマのクリシェである。徹底的に人間のドラマ――そう、「メロドラマ」が『AKB0048』の主軸にはある。

このバランスを欠いたバランス。

脚本・シリーズ構成としてクレジットされている岡田麿里の、メロドラマの書き手としての能力の高さは疑うべくもない(『あの花』を観れば、誰もが納得するように)。しかし彼女のメロドラマの書き手としての力は、時としてあからさまな失調を見せることがある。例えば、『ブラック★ロックシューター』は、少女たちのメロドラマとして描かれながら、いざ「世界の原理」に語りの局面が差し掛かった途端に、物語の像を曖昧なものにしてしまう(実際は、それほど複雑な話ではないはずなのだが)。

そうやって考えると、たぶん『AKB0048』の「悲劇」を担い、またこの物語を垂直の光に照らし出しているのは、河森正治なんじゃないかという気がする。なにせ、世界を神々の闘争の場として描くときに、途轍もない力を発揮する人だ。『アクエリオンEVOL』もそうだけれど、彼と岡田という組み合わせは、この「悲劇とメロドラマのアンバランス」を召喚しているような、そんな感じがする。
脚本/岡田麿里、絵コンテ/河森正治・平池芳正、演出/水本葉月・高島大輔・筑紫大介、作画監督/小倉典子・今西 亨・杉村友和。

2012年5月3日木曜日

『AKB0048』第1話「消せない夢」

うわ、なにこの美術の情報量の高さ!
細やかな光の使い方も上手いけど、背景で「荒廃してるけど、人の生が根付いている未来社会」をしっかり描いてみせてる。すごい。

ただ、キャラがふわっふわなので、えらく浮いて見える。特に鍵になるのは頭と瞳のハートマークで、言い換えると、あのハートマークは「聖痕」として機能してる。彼女たちがアイドル(=AKB)となるべく運命付けられている存在だ、とデザインの時点で告げてる、っていう。

それは、彼女たちがこの「荒廃した未来社会」において「特別な存在であること」を端的に示してるわけなのだけれど、困ったことに第1話は、そんな彼女たちが「AKBのオーディションに合格するかどうかわからない」ことが、メインの主眼に据えられてる。
でも、こういうデザインを施されている時点で、オーディションに無事、合格することはほとんど確定しているわけで(ここで裏切られたら、そもそもあのデザインは何だったの? って話になる)、オーディションへの不安は作劇の前提として成立してなくね? って気がする。
ハリソン・フォードは死なない問題、ですね。

まあ、デザインと脚本は別々に進行してることが多いので、 こういう事態を招いてるのかなあという気もするんですが。

あ、あとほぼ同じ座組みで進行している『アクエリオンEVOL』も、似たような(リアリティのある美術で、近未来の社会を描く)志向性の作品なんだけど、美術の肌触りがなんか違う。それぞれ美術を担当しているスタジオが、『AKB0048』はスタジオイースター、『アクエリオン』が美峰という違いはあるんだけど、たぶんそこじゃなくて、美術が描こうとしている「対象」が違うから……だろうか?
『AKB0048』においては、「社会の暗さ(と、そこから飛び立とうとする少女たちの明るさ)」が、そのままコントラストの強い背景に反映している、というか。まあ、『AKB』の美術は、暗いというより「濁っている」という感じなのだけれど。
脚本/岡田麿里、絵コンテ/河森正治・平池芳正、演出/高島大輔、作画監督/山田裕子・長坂寛治。

2012年4月29日日曜日

『LUPIN the Third -峰不二子という女-』第4話「歌に生き、恋に生き」

ルパンの当番回。オペラ座の怪人に仮面の歌姫、地下水路……と、魅力的な道具立てが並んでいるにも関わらず、どうにも作劇がうまく回っている感じがしない(そういう意味では、第3話もそうだったのだけれど)。

「舞台」を題材に取ったとき、その舞台の「上」と「裏」の落差が、ドラマの原動力になるのが王道なのだけれど(例えば『コードギアス』のように)、本エピソードは敢然とそうした「王道」に背を向けて、しかし、結局どこに着地しようとするのか、よくわからない。舞台の「裏」にこそ人生がある。……というにしては、歌姫のくだした「決断」には、人間の生が抱える業に欠けている印象がある。恋に生きる者の「狂気」もなければ、歌に生きる者が抱える「呪い」もない。ゆえに、そこで起こるドラマもまた、薄っぺらなものに見えてしまう。
脚本/岡田麿里、絵コンテ/高橋敦史、演出/山内東生雄、作画監督/清水洋。

『氷菓』第1話「伝統ある古典部の再生」

京都アニメーションらしい、丁寧な作画が印象に残る。が、その「丁寧さ」が何を志向しているのか、(今のところ)よくわからないところもまた、このスタジオらしい。京都アニメーションの制作作品は、回を重ねていくとずいぶん印象が変わっていくので、この段階で判断するのは、危険だなと(やっぱり)思う。

「日常にあるささいな齟齬」を、ミニマリスティックに広げていく……というのが、基本線なのだと思うのだけれど、ややもするとうざったくなってしまうはずの、主人公・折木奉太郎の独白を、うまく、不快にならないぎりぎりのラインで拾ってみせる中村悠一、そしてお調子者のように見えて、じつは意外と目端の効く友人・福部里志役の阪口大助。ふたりのやり取りは、さすがの安定感か。
脚本/賀東招二、絵コンテ・演出/武本康弘、作画監督/西屋太志。

『LUPIN the Third -峰不二子という女-』第1話「大泥棒VS女怪盗」

絵と音響(劇伴のつけ方も含めて) については、文句なしの仕上がりだと思う。

ただ、とにかく物語の組み立てに不満が募る。題材が題材なだけに(なにせ「ルパン」なわけで)、「緻密な作劇をしろ」とは思わないがしかし、前半の、牢に閉じ込められたルパンと不二子の、極めて説明的な会話の応酬(しかも長すぎて、内容が頭に入ってこない)とか、「島」の仕掛けを説明するだけしてまったく機能させない後半の展開とか、正直「どうよ?」と思う。 
あと、このエピソードの主軸である「麻薬」をめぐる顛末も、決して上手くいってるようには見えないのが、なにより致命傷。

まあ、リメイクものって外野も内野もうるさい人が多いだろうなーと予想するので、あんまりブーブー言うのもなにかなーと思うのだけれど。
脚本/岡田麿里、絵コンテ/山本沙代、演出/高橋亨、作画監督/小池健。


 

『夏色キセキ』第4話「ユカまっしぐら」

冒頭近くにある優香と凛子の会話が抜群によくて、思わず背筋が震えた。

凛子「先輩のこと、好きだったの」
優香「過去形にすんな! ……はあ、年下はないって言ってたのに」
凛子「紗希、大人っぽいから」
優香「どうせガキですよー」
凛子「髪、巻く?」
優香「1日持たないぃ」
凛子「……だよね」

この、短いセンテンスがピンポンのように交わされて、しかも話のポンポンと飛躍する感覚。綾奈ゆにこっぽいなあ……と思ってたら、ホントに脚本が綾奈ゆにこだった。
第3話(村井さだゆき)もそうだったけど、脚本家の個性がうまく活きてるな、と思う。

「登場人物の人格が入れ替わってしまう」という仕掛け自体は、けっして上手くいってるとは思えなかった(特に、途中から4人とも中身が入れ替わってしまって以降は、誰が誰だか一瞬、わからなくなる場面も多かった)けど、最後の、名前を呼んでもらうシーンで、優香の欲望が挫かれてしまう流れはすばらしい。
脚本/綾奈ゆにこ、絵コンテ・演出/京極尚彦、作画監督/山村直己。

『戦国コレクション』第4話「One-eyed Dragon」

夏葉くんが書いてるように( https://t.co/heawGqGr )全体に抽象度が高すぎるきらいががが。

『戦コレ』は物語の基本前提として、架空の戦国時代と現実世界の「落差」がある。
で、それを支えている(担保している)のは、現実世界の「風景」なんだけど、4話はそうしたディテールを排除した画面構成になっているので、全体に「空想=絵」の世界に包まれてしまっている。つまり、結果として現実世界との接点が極めて薄い。

しかも、そこに『さそり』(直接参照されているのは、伊藤俊也監督の『女囚701号/さそり』(72年)だろう)という別のレイヤーの、フィクションを被せているので、より現実世界との乖離感が強い。加えて、政宗自身が「現実との接点が薄いキャラクター」として描かれていることが、それを加速させているように見える。

また加えて、政宗のクローズアップを多用していることで、全体が「政宗の心象風景」のようにも見える。そういう意味でも、これまでの3話とはまったく違った趣向が施されているのだが、それが『戦国コレクション』の物語世界とうまく調和しているかというと、どうも違和感が残る。
脚本/新井輝、絵コンテ・演出/後藤圭二、作画監督/石川智美。

『戦国コレクション』第3話「Pure Angel」

川によってひき離された謙信と兼継、という構図の、バカバカしいまでの大胆不敵さ! 高円寺近辺にあんな大きな川なんてあったっけと思ったけど、この構図を成立させるためだったのかー。

今にも兼継がざぶざぶと川に入っていきそうな気配を感じてドキドキしていたのだが、2人の気持ちが通じた瞬間、兼継はふわりと羽を広げ、悠々と川を飛んで渡る。そして、虹の橋がかかると同時に色を取り戻すモノクロームの風景。この徹底的にあっけらかんとした単純さ。

こういう瞬間を目の当たりにすると、心の底から「映画やアニメが好きでよかった」と思う。
脚本/雑破業、絵コンテ/後藤圭二、演出/藤本次郎、作画監督/奥野浩行・大庭小枝。