2015年10月4日日曜日

アンドレ・バザン『映画とは何か』

『映画とは何か』を読みながら考えていたのは、アンドレ・バザンはアニメーションを観ていたのだろうか? ということだった。

 もちろん『映画とは何か』には、今でも参照すべき議論も多い。「作家主義」が、なにもひとりの映画監督を捕まえて、くだくだと話を引っ張ることではなく、なにより脚本と演出を切り離して論じるための「手法(テクニック)」だったことを久しぶりに思い出したし、ブレッソンの脚色をめぐる議論にも、第二次大戦後の西部劇の達成を見ていく手つきにも、大いに刺激された。

 それにしてもしかし、バザンは「アニメーション」を観ていたのだろうか? と思う。

 ……アニメーション、と言ってももちろん、今、日本で深夜帯に流れているような作品群のことではなくて、バザンが映画評論家として活躍していた第二次大戦後から1950年代にかけて、MGMやワーナー、ディズニーが実写作品の「添え物」として制作していた――いわゆる「カートゥーン」のことだ。『映画とは何か』のなかで、カートゥーンにわずかにでも言及があるとすれば、アルベール・ラモリス作品について論じた「禁じられたモンタージュ」の冒頭近く。そこでバザンは「児童にふさわしいフィルムライブラリー」を作ろうとしても、「子ども向けに撮られた短編数編」か「アニメを含む、題材の面でも着想の面でもかなり幼稚な商業的映画何本か」程度しかない――と断じて、さらにこう続ける。

「とはいえ、それらの商業的作品は(中略)精神年齢が十四歳以下の観客にも理解できる作品であるというだけのことである。ご存知のとおり、アメリカ映画がこの潜在的レベルを超えることはそう多くはない。たとえばウォルト・ディズニーのアニメがそうである」

「ウォルト・ディズニー」と、具体的に固有名詞が出てきているくらいなのだから、彼がまったくアニメーションを観ていなかったはずはないし、「ディズニーのアニメ」そのものに対する彼の評価はさておくとしても、この文章を読むと、アメリカの喜劇映画――なかでもドタバタ喜劇の伝統に「カートゥーン」を接続する……という発想が、彼にはまったくなかったように見える。

 1951年に発表された文章「演劇と映画」のなかで、バザンは大衆演劇のコメディアンたちが、初期の商業映画に与えた影響をこんなふうに述べる。

「古典的な笑劇(ファルス)における登場人物やシチュエーションの設定、手法を思い返してみれば、ドタバタ喜劇映画こそが笑劇の突然にして驚くべき復活であることに気づかざるを得ない。十七世紀以来、衰退の一途をたどっていた笑劇は、極端に特殊化し、作り変えられて、サーカスやある種のミュージックホールでわずかに命脈を保っているにすぎなかった。だが、ドタバタ喜劇映画の――とくにハリウッドの――プロデューサーが俳優をスカウトしに行ったのは、まさにそこだったのである」

 バスター・キートンやハロルド・ロイド、ローレル&ハーディ、そしてチャーリー・チャップリンと、チャップリンが「師」と呼んだフランス喜劇界のスター、マックス・ランデ……。「1905年から1920年にかけて、笑劇はその歴史上でも例のないほどの輝きを放ったのだ」とバザンは言い、また別のところ(「ユロ氏と時間」)では、こうも書く。

「ハリウッドはトーキーの出現以降も、チャップリンを除外して考えてすら、喜劇映画の支配者であり続けた」。

 コメディアンたちによる喜劇映画の系譜――ということでいえば、スタンダップコメディアンとしてキャリアをスタートさせ、今ではハリウッドを代表するスターのひとりとなったアダム・サンドラーを筆頭に、『サタデー・ナイト・ライブ』のレギュラーメンバーだったウィル・フェレルや『ザ・デイリー・ショー』のスティーブ・カレルといった面々を思い出すし、そんなフェレルやカレルと『俺たちニュースキャスター』でタッグを組んだポール・ラッド主演の『アントマン』は、脚本クレジット――イギリスのコメディ番組出身のエドガー・ライト&ジョー・コーニッシュ、『SNL』出身のアダム・マッケイとポール・ラッド自身――を見ても、まさに「コメディアンによる喜劇映画」の伝統を、「スーパーヒーロー映画」に、真正面から接続した傑作なのだと思うし、あるいは品川ヒロシや劇団ひとりの映画が面白くて、なぜ『テルマエ・ロマエ』は笑えないのか? という問題に(勝手に)突き当たったりしてしまう。

 ……と、それはさておき。

 そんなふうにして、まさに1920~30年代にかけて絶頂期を迎えた「アメリカのドタバタ喜劇」は、しかし、バザンによれば「この十年から十五年のあいだにすっかり力を失ってしまった」。
 これは1953年に刊行された『西部劇、あるいは典型的なアメリカ映画』の序文として書かれた文章の引用だから、だいたい1940年代のことを指していると思われる。実際、トーキーの登場(1927年)によって、アクションの面白さを前面に押し出したスラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)から、軽妙な会話のやり取りを重視するソフィスティケイテッド・コメディへと、アメリカ映画の喜劇の主流は移っていった。

 とはいえもちろん同時期には、エルンスト・ルビッチやプレストン・スタージェスらが30年代に発表したスクリューボール・コメディの数々、あるいはハワード・ホークス(!)の諸作があったし、そして――これがこの文章の本題なのだが――1930年代の半ばに、ワーナー・スタジオのアニメーターとしてキャリアをスタートさせ、41年にMGMに移籍してから凄まじい勢いでカートゥーンの傑作を次々と手掛けたテックス・アヴェリー!

 彼は、1942年に『うそつき狼』でアカデミー賞短編アニメ部門にノミネートされるのだが、この年にはオーソン・ウェルズ監督の『偉大なるアンバーソン家の人々』も、作品賞にノミネート。またウェルズはその前年、『市民ケーン』でも監督賞にノミネートされているのだが、『映画とは何か』をお読みの方ならばご存知の通り、バザンの「映画史」では『市民ケーン』が非常に大きな位置を占めている。

 言い換えれば、1950年代序盤のバザンは『うそつき狼』より『市民ケーン』を選んだともいえるのだが、そこにはたぶん、『うそつき狼』が「題材の面でも着想の面でもかなり幼稚な」アニメーション映画だったということよりも、もう少し根深いものがあるように思う。

 バザンの映画批評において、それぞれの作品は、大きく「象徴主義」と「リアリズム」という2つの軸の緊張関係として取り上げられる。そしてその緊張関係は、技術的な発展――なかでも特にカメラレンズの進化と、それによってウェルズが達成したパンフォーカス(言うまでもなくその最初の成果が『市民ケーン』)による画面作り、そしてそこから生まれる「リアリズム」により重きが置かれるようになり、さらにはそれがイタリアン・ネオリアリズモの評価へと繋がっていくことになる。

 もちろん、だからといってそれまで映画を駆動していた「象徴主義」を切り捨てるようなことを、バザンはしないのだけれど(実際、1950年代の西部劇を論じる際、適度なリアリズムをメロドラマに導入した『シェーン』よりも、アンソニー・マンの『裸の拍車』を高く評価している)、しかしそれにしても「喜劇映画」の伝統に敏感に反応しながら、たぶんにその突然変異的な遺伝……のように見えるテックス・アヴェリーに触れないバザンは、やはり「アニメーションを観ていなかった」のではないか?

 いや、評論家がすべての作品に満遍なく触れることなど不可能なのだから、バザンがアヴェリーを無視したことを責めるのは、不当だろう。しかし「リアリズム」――スクリーンやモニターに映ったものが、まるで現実のように見えること――は、あくまでも「映画」の一部でしかない。
 そして個人的には、映画の「象徴主義」――省略し、誇張し、記号化することで生まれる、速度と軽さと乾きと荒唐無稽は、決して軽視していいものではない、と思う。

「私の作品はドライで情緒がないと言われる。又人物が喜劇的に誇張されていて、軽兆の感があり真実味が足りないと評される。又徒らにテンポのみ早くて、環境描写や雰囲気描写が皆無で、味も素気もないといわれる。これらの批判はすべてある意味では正しいと思われる。
 しかしもし、弁明することが許されるならば、私は意識的に情緒を捨て、真実を歪め、雰囲気を否定している――と言いたい」。

(増村保造「ある弁明――情緒と真実と雰囲気に背を向けて――」)


2013年11月2日土曜日

アキバの歩き方――メイド編

電気がなくちゃアタシ何もできないから
……というのは、SPANK HAPPYの「アンニュイ・エレクトリーク」の一節なのだが、メイドさんたちでいっぱいのアミューズメントパーク=秋葉原とこの曲は、なんだかすごく似合う。
 どんより曇ったお昼ちょうど過ぎ。昭和通り口で降りて、最初のメイド喫茶「ぴなふぉあ」に向かう。“最初の”って時点で何か間違えてる気がするが、店頭の写真を押さえたあと、朝から何も食べてなかったので、中に入ってアイスコーヒーとペペロンチーノ。お店のつくりはカウンター半分、テーブル席半分。メイドさんの姿がよく見えるカウンター席には常連さんが3人ほど座っていて、楽しそうにおしゃべりしてる。肝心のメイドさんは、たぶんコスプレイヤーなんだろうなあと思わせる感じの女の子がふたり。けっこう可愛い。
 ただ足元が不安定な気がしてて、コーヒーを運んでるときの、ちょっとおっかなびっくりな感じ。あれ、厚底の靴を履いてるからなのね。そっかー、とか思う。

 だらだらメイドさんを見てるのも飽きたので1時間くらいで2軒目に移動。お次はこの(注:2005年)6月にオープンしたばかりの、英國式メイドリフレクソロジィのお店「MeltyCure」。取材ということで開店前に入らせていただいたのだけれど、受付の横に狭い待合室があって、そこで置いてあった雑誌をパラパラめくっていると「準備ができましたー」。店長さんの案内で個室に通される。マッサージチェアに横になって、まずはフットバス、それからハンドリフレ。基本は25分なのだが、今日はお試しということで15分。
「どんなお客さんが多いんですか」
「20~30代、やっぱり男の方がほとんどですねー」
「マッサージってやっぱり講習とかあるんですか」
「週1回先生に来てもらってるんですよ。あとは、女の子同士で練習したり」
「けっこう力も必要だし、疲れそうだなあ」
「そうですねー」
 とかいってるうちに、15分はあっという間に終了。えっ、もう終わりなの? なかには基本コースをダブル(25分を2回)で入るお客さんもいるらしいのだが、その気持ちはよくわかる。メイドであろうがなかろうが、リフレクソロジーは気持ちいい。もちろんメイドであれば、なおのことよい。

 両腕にベビーパウダーの匂いをつけて、駅方面に向かってふらふら歩いていると、メイド服のふたり組の女の子を発見。んん? どっかのお店の女の子が休憩中に出歩いてるのか? とか思うが、どうやら違った様子。コスプレらしい。平日の、昼間にアキバで、メイド服。一句できた。このあと彼女たちとは何度もすれ違ったんだが、いったい何をやっていたのだろう。

 3軒目は、メイド喫茶のなかでも老舗中の老舗「キュア・メイド・カフェ」。秋葉原ガシャポン会館の6階に入っている喫茶店。そう、メイド喫茶というよりはむしろ、喫茶店なのである。ここの経営はコスパがやっていて、もともとは2階のコスパショップとの連携ができて、常設できるお店……という発想から、喫茶店にたどり着いたらしい。「ここができた当初は、秋葉原に飲食ができるお店がほとんどなくて。で、喫茶店ならちょっとした休憩もできるし、打ち合わせスペースにも使える。これはいいよね、と」。だから店内にアニメソングもかかってないし“ふぅふぅ、あーん”もない。言ってみれば、ウェイトレスがメイド服を着てる喫茶店。「女性の方だったり、家族連れのお客さんも多いですね。土日だと、外の階段に1階までずらーっと行列ができることもあって、本当に申し訳ないなあと思います」。

 取材を終えて外に出ると、もう暗くなりはじめている。中央通りを歩いて「メッセサンオー同人館」と「とらのあな」をひやかす。とても誌面に載せられないようなドギツイエロCG集を買おうかと思うが、ふと横を見ると『メイドさんを右に』という同人ゲームを発見。せっかくのメイドデーだし、買って帰ろう(かなり思考能力が弱まってる)。ついでに『ハバネロたんハウス』を購入。歩いてるだけで、荷物が増えていくな、この町は。
 最後は、秋葉原の駅を突っ切って再び昭和通り口へ。コスプレメイドバー「basicBar bB」。こじんまりとした店内は、完全なショットバースタイル。せっかくなので、マリアさんにオリジナルカクテルをつくってもらって写真撮影。なんかもう、メイドとかメイドとかどうでもよくなってくる。店内のテレビで流れてる『パイレーツ・オブ・カリビアン』が、すげえ面白そう。窓の外はすっかり暗くなってて、ネオンサインがやたら綺麗だ。
もうこの退屈な国ではセックスもあと少しで絶滅しちゃいそう
ほらみんな恐がりだし
ねえ神様?(SPANK HAPPY「アンニュイ・エレクトリーク」)
 うん、確かにそうかもしれない。キラキラ光って、かわいい女の子やメイドさんたちでいっぱいの電気の国。駅に向かってとぼとぼ歩いてたら、突然誰かのカン高い笑い声が聞こえた。


(注)「CONTINUE」Vol.23「秋葉原大特集」に寄せたもの。当時(2005年)、ぽこぽことできはじめていたメイド喫茶・関連店舗を見て歩く、という、なんの工夫もないリポート記事。秋葉原の町並みも、すっかり変わりました。

世界と繋がる、もうひとつの冴えたやり方――『ジョジョの奇妙な冒険』をめぐって

 メディア・アーティストの八谷和彦が2005年から始めた新しいシリーズ「フェアリーファインダー」は、“見えないものが見える”ということをモチーフにした、とてもユニークなシリーズだ。
 現在までに「コロボックルのテーブル」など、4作品が発表されているこのシリーズでは、特殊なレンズを通すことで、肉眼では見ることのできなかった“存在”たちが、写真や映像の向こうに、ふいに出現する。偏光レンズの向こう側で、クルクルと舞い踊る妖精や人魚たち。
 その光景は、不思議な磁場で僕たちの心を惹きつける。

 ……すぐそこにいるはずなのに、見えないもの。眼には映らないけれど、でも確かにそこに存在している何か、について。もしかすると世界のあちこちに偏在しているのに、でも僕らには(どういうわけだか)見ることのできない「妖精や小びと」たち。
 その存在を想像してみる、ということ。

         *

 1987年の連載開始から、現在まで描き継がれ続けている、長編(というにはあまりに長大な)コミック『ジョジョの奇妙な冒険』。作者の荒木飛呂彦は、記念すべき第一巻の前書きに、こんな言葉を書きつけている。
はっきり言うと、この作品のテーマはありふれたテーマ――『生きること』です。
 対照的なふたりの主人公を通して、ふたつの生き方を見つめたいと思います。『人間』と『人間以外のもの』との闘いを通して、人間讃歌をうたっていきたいと思います
……人間讃歌! 19世紀のジョナサン・ジョースターとディオ・ブランドーの確執から、孫のジョセフ、さらにその孫の空条承太郎や娘の徐倫、あるいは隠し子の東方杖助へ……。まるでバトンを受け渡すように、描き継がれてきたジョースター家とその周囲の人々(正確に言うと、現在連載中の第七部は違うのだけれども)。その血と暴力にまみれた系譜の、いったいどこに“人間讃歌”が? ……と、訝しく思う気持ちがないではない。
 でもその一方で、この宣言文は実は結構、本気だったんじゃないか、とも思う。少なくとも『ジョジョ』の物語は、一貫して「『人間』と『人間以外のもの』の闘い」を描き続けているのは、確かなのだから。

『ジョジョ』の長大な物語には、ひとつ大きな切断点がある。
 それはよく言われるように、第三部において導入されて、さらに第四部以降において全面展開することになる「幽波紋(スタンド)」という存在なのだが、その詳細を見る前に、第一部と第二部が、どのような構造に則って描き進められていたのか、今一度、確認しておこう。
 すでに原作をお読みの方ならばご存知の通り、第一部はジョースター家の家督をめぐる戦いとして、まずは描き始められる。
 心正しき貴族の息子として、すくすくと育ったジョナサンと、社会の最底辺で憎しみと呪いのなかで育った養子のディオ。ディオは、その恨みを晴らすべく、父ジョージの殺害を企て、ジョースター家を自らの手中に収めるべく、計略を張り巡らせる。
 ここで争われているのは、単純に言うと“いかに生きるか”という闘争だ。貴族として“よく生きよう”とするジョナサンと、欲望のままに“善悪を超えて生きよう”とするディオ。しかしふたりの争いは、石仮面の登場によって、さらに違うレベルへと突き進む。
 石仮面は、それを被った人間を吸血鬼へと変えてしまう。人間業とは思えない力とスピードを持ち、人の血をすする吸血鬼へ。石仮面を被ったディオは、人として“善悪を超える”ばかりでなく、人間を捕食し、不老不死に最も近い“怪物”――荒木の言葉を借りれば「人間以外のもの」へと、姿を変える。
 人間と、人間以外のものの闘い。
「波紋」とはいわば、人間が人間以外のものに対抗するための武器のことだ。生命エネルギーの源である“太陽”の力、あるいは人が生きていることの証である“呼吸”の力によって、食物連鎖の外へ出てしまった“怪物”を倒す。生の力によって死を祓う。『ジョジョ』の第一部で提示される対立構造は、これ以上ないほどに明瞭かつシンプルだ。
 この構造は、続く第二部、第三部においても、基本的に踏襲されていくことになる。
 第二部の敵となるカーズたちは、エイジャの赤石を手に入れ、究極の生命体となることを目的としていた。ありとあらゆる生命体の上位の座につき、永遠の生を謳歌するということ。事実、第二部の最後で、ついに目的を果たしたカーズは――地球の外へと放逐されるものの――永遠の生を手に入れる。
 そこへと至る闘いは、ほとんど神話に近い。圧倒的な力を誇る神々に、抗い傷つき、死んでいくヘラクレスたち。ジョセフたちがつねに、相手を裏を突く“知恵”を最後の武器にしていたのは、そんな「人間らしさ」の表れでもある。
 さらに第三部では、こうした構図がより先鋭化された形で提示される。承太郎たち一行を追う敵は、タロットカードやエジプト12神になぞらえて形式化され、百年の眠りから目覚めて復活したディオは「ザ・ワールド」と呼ばれるスタンドを使って、未来永劫にわたって人々に君臨することを宣言する。
 ここにきて、ジョジョたち=「人間」に対峙するのは「世界」そのものとなる。

         *

 キリスト教の中心的教義のひとつ「三位一体」は、よく考えてみると、なんだかとても奇妙なものに思える。
「父なる神」と「ロゴス(世界を構築する論理)である子なるイエス・キリスト」、そして「聖霊」。三つはそれぞれ自立した位格でありながら、同じ実体を持つという。
 これはいったいどういうことなのだろう?
 特に問題なのは、三番目の「聖霊」だ。キリスト教の本を読むと、この聖霊は、神と人をつなぐ媒介物のようなイメージで描かれることが多い。つまり、神託を下す神と、それを受ける人々と、その両者の隔たりを越えて言葉を伝える聖霊、というイメージ……。
 しかし、実際に聖書を読む――特に、旧約聖書の『ヨブ記』のような経典を読むと、そこには、あまりにも圧倒的な力で翻弄する神(と悪魔)と、そしてそれにも関わらず、信仰を捨てない人々の姿が、鮮烈なイメージとなって記憶に残る。盗賊によって財産を奪われ、落雷によって家族を失い、皮膚病に苦しめられ、のたうちまわるヨブ。
 彼にとって、世界はまさに不条理以外の何物でもない。そして彼は、この不条理が神によって課せられた試練であることを、明瞭に意識している。
 大いなる神の意思に人生を左右され、それでも信仰を捨てなかったヨブ。そこには、聖霊の入る余地はなさそうに見える。

 かつて東浩紀は「郵便的不安たち――『存在論的、郵便的』からより遠くへ」と題された講演で、ジャック・ラカンにならって、この世界のあり様を三つに文節化してみせた。
 非常に遠くにある抽象的なもの――例えば世界の破滅とか――が属する「現実界(ル・レエール)」と、その逆に肉親や恋人との関係のような、私たちの非常に近くにある「想像界(リマジネール)」。そしてその間を媒介し、言語的コミュニケーションを成立させる「象徴界(ル・サンボリック)」。
 さらに東は、アニメーション監督の幾原邦彦の言葉――いまの10代は、恋愛や家族のようなきわめて身近な問題と、世界の破滅のようなきわめて抽象的な話とがペタッとくっついている――を引きながら、「象徴界」の衰退=社会や国家といったレヴェルの機能不全が起こっているのではないか、と述べる。
 ここで「人間関係と『世界の終わり』を短絡する」作品として、東は、新井素子の小説『ひとめあなたに…』を取り上げているのだが、まさしく今、「セカイ系」と呼ばれるような一連の作品群――その発生の原因を、正しく分析しているという点で、この98年に行われた講演は、しっかり時代の流れを捉えていたように思う。
 問題は、ラカンが言うところの「象徴界」が――人と世界をつなぐ媒介物、コミュニケーションの回路が、「社会」や「国家」だけを指していたのか、というところにある。

         *

 スタンド(幽波紋)の導入が、『ジョジョ』の物語を複雑にした、という意見をよく聞く。と同時に、個人のファンサイトなどを見ていると、登場スタンドを細かく分類、掲載している人も多いし、熱心な『ジャンプ』読者のなかには、連載当時「読者が考えたオリジナルスタンド」の募集が行われたことを、覚えている人も多いだろう。
 一体、スタンドとは何なのだろう?
 第一義的に言えば、スタンドとは「波紋」の力が幽体化したものだ、といえる。第一部、第二部において“人間”の、あるいは“生あるもの”の力の象徴であった「波紋」は、第三部において(一部の能力者だけに)可視化し、個々に多様な能力を持った「スタンド」へと変貌を遂げる。攻撃に特化したもの、群れをなしているもの、物質と一体化するもの、鎧のように身を守ってくれるもの……。
 ディオとジョースター家の闘争と決着を経て開始された第四部以降は、この傾向はさらに顕在化し、『ジョジョ』の物語は、有象無象のスタンドたちが跳梁跋扈する、いわばスタンドたちの競技会のような、そんな物語へと変貌を遂げる。
 スタンドは、人間の力の延長であることを辞め――というか、ディオやカーズのような対抗すべき“絶対悪(あるいは「世界」そのものとして振舞う不条理=神)”を失って、スタンドとスタンド使いたちは、自らの技と能力と知恵と度胸を試すように、物語へと参与していく。
 いやむしろ、これは物語ではなく、一種の“サーカス”とでも言った方がいいのかもしれない。
 人は、スタンドを通して、ほかのスタンドやそれを使う人々と、ときにぶつかりあい、ときにコミュニケーションを図りながら、世界を形づくっていく。その終わることのない戯れ。神のいなくなった場所で繰り広げられる、人々と精霊たちのダンス。

         *

 宇野常寛は『SFマガジン』誌上で連載中の評論「ゼロ年代の想像力」において、“社会”や“国家”といった「象徴界」を失った人々は、その想像力の矛先を「想像界」と「現実界」を直結させるセカイ系を経由して、さらにその先へ――個々の決断によって事態の打開を目指す、決断主義的バトルロワイヤルへと至った、と述べている。彼が引用する『DEATHNOTE』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』は、まさに“神の座”=「現実界」を、自らの手中に収めんと闘争し、結果、挫折していく少年たちの物語として読み解くことができる。
 そこで宇野は、ポスト決断主義の処方箋として、宮藤官九郎や木皿泉らが試みた“一種の虚構としての共同体”への回帰を提示する。宮藤がテレビドラマ『木更津キャッツアイ』で描いた、ある時期に存在した楽園としての“木更津”。木皿泉が同じくテレビドラマ『野ブタ。をプロデュース』で描いた、優秀なプレイヤーであれば書き換え可能な舞台装置としての“教室”。いずれも“虚構”であることをわかっていながら、あえてそこに参入する“共同体”として、僕たちの前に現れる(その態度は、「あえて伝統主義者として振舞う」ことを選んだ、かつての宮台真司や福田和也の行動を、ふと想起させる――まあ、これは前述の東の講演で、すでに指摘されていることなのだが)。

 しかし、本当に選択肢はそれだけしかないのだろうか? 虚構としての共同体を通して、生の現実を勝ち取るというルートしか、存在しないのか?

 ここで僕は、すでに失われてしまったという「象徴界」に「聖霊」という言葉を代入してみたくなってしまう。僕たちのすぐそばにいて、でも見ることのできないもの。見ることはできなくても、確かに世界のあちらこちらに偏在していて、僕たちを世界につなぎとめている“存在”。それを、聖霊と呼んでも、あるいは精霊、幽霊、妖怪、妖精――そしてもちろん「スタンド」と呼んでも構わない。
 ある種の親密さを身にまといながら、しかし決定的に人と違ったレヴェルに属し、ときに人を惑わせたかと思えば、ときに恐怖させ、しかし紛れもなく、世界と人をつないでいる“何か”。そんな“何か”を介して、他者と、世界とコミュニケーションする、ということ。少なくとも、その可能性を探り続ける、ということ。

 共同体の代わり(オルタナティブ)として、ありうるかもしれないコミュニケーション手段としての「スタンド」。

 冒頭で紹介した八谷和彦の「フェアリーファインダー」シリーズが、どうしようもなく僕たちの心を惹きつけるのは、まさしくそんな(ある意味、空想的な)可能性を、僕たちに突きつけてみせるからだ。
 人と人でも、人と神でもなく、人と聖霊/妖精の関係を切り出してみせる八谷の手つきは、確実に“今”という時代に欠如しているものを指し示している。それは「視聴覚交換マシーン」から一貫して、ありうるかもしれないコミュニケーションの様式を探り続けている、彼らしい発想でもあって、なんだか妙にハッとさせられたりもする。
 精霊たちの声に耳を傾け、目を凝らして姿を追い、あるいはその存在を皮膚で感じ取り、あるいは想像してみるということ。それは、共同体に自閉しがちな僕たちの感受性を、確実に刷新してくれる。そしてそのとき『ジョジョの奇妙な冒険』という作品は、スタンド/精霊と人が戯れる“奇妙な冒険”へと、僕たちを誘ってくれるように思うのだ。

         *

 最後に、『ジョジョの奇妙な冒険』は、単に精霊と人の関係を捉えなおした作品というだけには留まらないことを、指摘しておくことにしよう。
 空条承太郎の娘・徐倫を主役に据えた、第六部「ストーンオーシャン」の宿敵・プッチ神父は、まさに宇野が示唆する決断主義的な作品群に登場しそうなキャラクターとして設定されている。
 ディオから、全人類を幸福に導く「天国へ行く方法」を託された彼は、その徹底して苛烈な“決断”によって、ついには、すべてが一巡してしまった「新たな宇宙」を作り出すまでにいたる。彼はまさしく、新世界の神となってしまうのだ。究極まで加速された時間を、堅強な意思によって乗り越えようとするプッチ神父の姿は、ほとんど「神が死んだ」あとの世界で、永劫回帰を唱えたニーチェの、超人思想をそのまま体現したようにも見える。
 さらに続く第七部「スティール・ボール・ラン」においては、第四部以降破棄された、“不条理な神としての世界”を、改めて(もしかすると、喜劇/パロディとして……?)描き出そうと、しているようにも見える。果たして、この物語がどのような結末を迎えるのか、まったく予測がつかないが、いまだ『ジョジョ』は、僕たちの想像力を刺激し続けているのは、確かだ。



(注)「ユリイカ」2007年11月臨時増刊号「総特集/荒木飛呂彦」に寄せたテキスト。ブログ掲載 にあたって、加筆修正した。執筆者のひとりでもある泉信行には「何について語ろうとしているのが良くわからずじまい」と言われてしまったのだけど( http://d.hatena.ne.jp/izumino/20071116/p1 )、要するに、スタンドというのは「コミュニケーションの媒介」なんじゃないか? という話でもある。これは『ポケットモンスター』が、なぜポケモンという「媒介」を要請したのか? という問題とも通じているんだけれど、まあ、あんまり理解されるような話ではないんだろうな、とも思う。

2013年9月6日金曜日

バブルガムポップとしてのアニソン9曲+1

「恋愛サーキュレーション」を聴きながら、アニメ評論家の藤津亮太さんが選曲も担当したラジオ番組『カウントダウン☆アニメロボット』の解説( http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65725688.html )を読んでいて、ふと「バブルガムポップとしてのアニソン」という概念を思いついた。
「バブルガムポップ」といっても、人によって思い浮かべるイメージはさまざまだけれど、

1)まずその作品(アニメ)がなければ存在しなかった曲であること。
2)職業作家が作・編曲を手がけていて、歌い手と分離していること。
3)劇中のキャラクターないし声優が歌っていること。

あたりが条件になるだろうか。 そんなわけで、You TubeとWikipediaをぶらぶらしながら、思いついた10曲を並べてみた(なんとなく00年代前半を中心に選んでみた)。

・Neko Mimi Mode(月詠 -MOON PHASE-/OP)'04
「恋愛サーキュレーション」がきっかけだったので、まずはこの曲。今聴いてもすごいと思う。

 ・少女Q(ぱにぽにだっしゅ!/OP)'05
新房監督作品ということで「ぱにぽにだっしゅ!」からこの曲。ほかのOP曲もいいんだけど、吉成作画が堪能できるので、これをチョイス。

・Harmonies*(くじびきアンバランス/ED)'06
劇中キャラが歌うエンディングというのに、個人的に弱い。野中藍の素晴らしさは言うまでもないが、小清水亜美もいい。

・虹色の宝物(まりんとメラン/ED)'00
同じく、キャラソンED。本編がすさまじく暗い作品なので、このエンディングの素晴らしさが一層際立つ。

・夢の中へ(彼氏彼女の事情/ED)'98
キャラソンEDでデュエット。という流れで思いだしたのがコレ。言わずと知れた、井上陽水の名曲をカバー。EDでこれがかかると、やっぱりグッと来る。

・アイスキャンディー(かみちゅ!/ED)'05
正確に言うと、キャラソンではないのだけれど、いいものはいい。

・Confidence(R.O.D -THE TV-/ED)'03
舛成監督作品ということでコレも。歌っているのが、本編後半に出てくる三浦理恵子(読子役)というあたりの、ひねり方もいい。このエンディングも、観るたびグッと来てしまう。

・風まかせ2(風まかせ 月影蘭/ED)'00
オープニングではなく、エンディングの方を。「R.O.D」と同じく、登場人物の声を当てている俳優さんが歌っているパターンで、安原麗子のスキャットがなんとも艶っぽい。 (本編の第1話は、ここから観ることができる → http://www.youtube.com/watch?v=mAXgvW90q4w  )。

・ヴィーナスと小さな神様(NieA_7/ED)'00
僕が最も偏愛するアニソンのひとつ。これを歌ってる山本麻里安が、本編でも声をやってると思いこんでたことに、今気づいた……。OPのSIONとのコントラストも素晴らしい。


(番外編)
・For フルーツバスケット(フルーツバスケット/OP)'01
「バブルガム」とは到底言えない(2と3の条件を満たしていない)けど、「フルーツバスケット」という作品と見事に共鳴した名曲だと思う。 

2013年9月4日水曜日

星団歴2988年、西暦2015年、昭和20年――悔恨の記号としての「年号」

「星団歴2988年」。
1989年に公開された映画『ファイブスター物語』は、黒い画面に白文字の、このテロップが現れるところから、その語りを起動する。ファンの方ならすでにご存知のとおり、この映画版は、長大な『ファイブスター物語』の冒頭部分、第1部と呼ばれているパートを映像化したものだ。「星団歴2988年」のテロップに続いて、Dr・バランシェによって作られた生体コンピュータ「ファティマ」の少女、ラキシスの目覚め、ラキシスの妹・クローソーとコーラス3世の出会い、ユーバー大公によるファティマのお披露目会といったエピソードが描かれ、そしてラキシスが運命の相手・アマテラスのもとへと嫁ぐ場面で、ひとまず映画は幕を下ろす。
アマテラスとラキシスの邂逅。それは、これから始まる長い戦乱の始まりを告げる出来事である。言い換えれば、2人の出会いこそが「歴史」の発動する場所でもある。そして『ファイブスター物語』は、その出会いを「星団歴2988年」という年号によって、長い長い時の流れに刻みつける。映画『ファイブスター物語』は、その語りを始めるにあたって、まずなにより「ある時間の一点」を指し示す。そこから始められなければならなかった。

もうひとつ、別のアプローチ。

「2015年12月20日、曇りのち雨。父が死んだ」。
少女のそんなモノローグから語り始めるのは、映画『ファイブスター物語』が公開される前年、1988年に発売開始されたOVA『トップをねらえ!』である。
モノローグの語り手は、主人公の少女タカヤ・ノリコ。黒枠に縁取られた父の遺影にオーバーラップして、彼女のこんなセリフが続く。「正確に言えば、12月19日に死んだ。父の乗っていた宇宙戦艦が遠い宇宙で、宇宙怪獣に襲われたのだ」。
ここで語られる「2015年」というのはもちろん、私たちが慣れ親しんでいる西暦2015年のことだ。そしてこの年号によってノリコたちの物語は、私たちの未来――決して近すぎはしないが、かといって遠すぎもしない、身近な近未来へと結び付けられる。それは『ファイブスター物語』が、架空の歴史を前提にしていたのとは逆だ。
それにしても『トップをねらえ!』の作中には、少しばかりギョッとするほど数多くの「年号」が跋扈している。ルクシオン号の完成を祝う新聞の紙面に見える2013年8月24日、ノリコが憧れの先輩である“お姉さま”ことカズミとともにパイロットに選出される2022年7月21日、あるいは、ノリコたち2人が10年越しの卒業式を迎える2032年7月31日、彼女たちを導いた鬼コーチ、オオタ・コウイチロウの墓に刻まれた2033年12月19日、そしてノリコの最後の戦いが始まる2048年5月22日……。
「何月何日」まで正確に記された、これらの時間。それらは目の前で語られていることが、私たち自身の未来に起こりうる出来事なのだと、そう伝えてくる。古今東西の諸作のパロディをふんだんに散りばめた、荒唐無稽なこのSFストーリー(そもそもタイトルからして『トップガン』と『エースをねらえ!』を掛け合わせたものだ)が、現実の延長線上にあるのだ、というサイン。そのようなものとして、これらの年号は機能している……ように見える。

しかしそれだけなら「SFにありがちな手法のひとつ」で片付けていいだろう。それよりも重要なのは、冒頭のノリコのモノローグに出てくる「正確に言えば」のひと言にある。
どうして彼女はわざわざそんなふうに、断らなければならなかったのか。それは「彼女が父の死を知った日」と「父が死んだ日」が、ぴったり1日ズレていたからにほかならない。主観的な出来事と客観的な事実が、決定的にズレてしまっていること。『トップをねらえ!』は、そんな「ズレ」をバネに物語をスイングさせ、飛躍させる。

すでに『トップをねらえ!』をご覧になっている方ならご存知の通り、この作品の主眼になっているのは、宇宙戦艦に乗り込んだノリコたちが「歳を取らない」ことにある。劇中で「ウラシマ効果」と呼ばれるこの現象は、SFの世界ではポピュラーな仕掛けのひとつだが、つまり、光の速さに近い速度で移動するほど、時間の進み方が遅くなるという現象を指す。ノリコの主観では1日の出来事であっても、地球で過ごす人々から見れば、何年、何十年もの時間が経過している。まわりの人々が歳を重ねているにもかかわらず、ひとりだけ若いまま、彼女は取り残される――違う時間を生きてしまうことの悲劇……。
そして最終話では、ノリコたちは宇宙怪獣との戦いの末、約1万2千年後の14292年7月6日(!)へと飛ばされる。遠い未来の地球では、すでに彼女たちが使っていた言語は失われ、彼女たちを出迎える「オカエリナサイ」の「イ」の字は、左右が逆転してしまっている。冒頭ではわずか1日だった主観と客観のズレが、数日になり、10年になり、そして物語の最終局面では「1万2千年」へと引き伸ばされる。いわば『トップをねらえ!』は、この「どんどんと引き伸ばされていくズレ」という運動をめぐって、綴られていく物語でもある。

そしてこのズレを明確に意識させるためにこそ、年号は「正確」に指し示されなければならなかった。2015年から始まった物語が、何度も繰り返しズレを振幅させるうちに、14292年へとたどり着くこと。人類を救い、その結果として、遠未来の地球へと帰還することになるノリコとカズミ――その決定的なズレの遠心力がファンタジーの方へ、1万2千年の「未来」へと彼女たちを放擲する。

そしてまた、もうひとつ別のアプローチ。

「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」。
そう映画の冒頭で述懐するのは、『火垂るの墓』の主人公・清太である。高畑勲が、野坂昭如の同名原作をもとに制作したこの映画は、『トップをねらえ!』の発売開始と同じ1988年に、宮崎駿監督の『となりのトトロ』との二本立てで公開された。
清太のセリフからもわかる通り、この作品の舞台となるのは第二次世界大戦末期の神戸。アメリカ軍の空襲を受け(劇中ではっきりと示されているわけではないが、史実と照らしあわせると、物語の始まりが1945年6月5日であることがわかる)、家を焼き出された14歳の少年・清太と、彼の4歳になる妹・節子の2人。彼らが、いかに大戦末期の日々を過ごし、そして最後には死にいたったのか。カメラはその約3ヵ月半を追いかけていく。

ここで使われている「年号」の機能は、極めて明瞭だろう。『トップをねらえ!』がそうだったように、「昭和20年」という年号は『火垂るの墓』を私たち自身の歴史へと結びつける。ただしそのベクトルは『トップをねらえ!』とは真逆だ。『トップをねらえ!』が未来へと――たった1日のズレが、まるで振り子の揺れのように増幅し、さらにその先のファンタジーへとノリコたちを送り出していくのとは逆に、『火垂るの墓』は過去のある一点、振り返ることしかできず、決して取り返しがつかない、そんな「決定的な時間」から物語を語り始める。そしてその「決して取り返しがつかない」ことはむしろ、『火垂るの墓』を『ファイブスター物語』の方に引き寄せていくように見える。

       *

『ファイブスター物語』の「取り返しのつかなさ」とはいったい何か。それはもちろん年表の存在だ。
『ファイブスター物語』が月刊アニメ誌「ニュータイプ」誌上での連載を始めるにあたって、これから語られるであろう(未来の)物語の「年表」を掲載したことは、この作品の最も大きな特徴のひとつでもある。そこでは人類という種がすでに「折り返し点に入った」と述べられ、また物語の鍵を握る巨大ロボット=モーターヘッドの誕生、アマテラスによる星団連合王国の樹立、そしてやがて訪れる宇宙の終わりなど、ここにはこれから物語が語ろうとする(もしかすると、すべてを語りきることはできないかもしれない)出来事が、あらかじめすべて書き込まれている。
私たちはこの「年表」を手に取り、そこに書き込まれたさまざまな(未知の)固有名詞を意味もわからないまま読み、触れる。それは、何千年、何万年というスケールで広がる長大な「時間」ではある。登場人物がどれだけ苦悩し葛藤したとしても、運命は決して変えることはできない……というような、ある圧倒的な感覚。
しかし、それは決して私たちの理解が届かないような、無限の広がりではない。むしろ『ファイブスター物語』は年表の存在によって、私たちにこれから語ろうとする物語の長さ、そこから生まれる厚み、ボリュームを、ある実体感を持って伝えようとする。

原作者の永野護は、第1巻のあとがきにこんなふうに記している。
この『何でもあり』の世界にあるたったひとつの巨大な足かせ、たったひとつの制限が『年表』なのです。何でもありで、何が出てきたとしても読者の方々は別に私がこれ以上描かないとしても結末は知っているのです。例外はありません。
ひとつの例外もなく、あらかじめ開示された物語。少なくとも『ファイブスター物語』のそれは、無限定の時空間に向かって、次々と送り、繰り出されるのではない。むしろその逆に、その物語は無限定の時空間に「年号」という名の時間を打ち込み、そしてその細部に向けて突進する。
そしてそこにおいて、個々の出来事――例えば、ラキシスとアマテラスの出会いは、一度きりの決定的な事件、一度起きてしまえば、もう二度と取り返しのつかないくさび、点、「年号」として、私たちの前に現れる。第1部では、アマテラスが何度も、ラキシスを自分のパートナーに迎えていいのだろうかと、逡巡する様子が描かれている。それもまた当然のことだろう。彼がラキシスを迎え入れてしまえば、自動的に物語は始まってしまう。そしてその物語は、一度語られ始めてしまえば、もう二度と「なかったこと」にはできない。

物語を語ることが、断念の、あるいは悔悟の形式であるような、そんな物語。

『火垂るの墓』の制作に際して、原作者の野坂は、高畑勲監督との対話のなかでこう語っている(『映画を作りながら考えたこと』所収の対談より)。
すぐそばに死があるわけだから、こちら側の生の充実感たるや、ものすごかった。それは単に、今度いつ食べられるか分からないから、いま食べてるものの味わいがよりひとしお深かったとか、そんなことじゃない。もっと根本的なことなんです。(中略)だから非常にきれいな風景の中で展開された、二人にとっては誠に充実した時間の流れが、いまからみると大悲劇であったという――。
この野坂の発言に対して、高畑監督は深く同意を示した上で、「(今回の映画で)そのあたりのことが伝えられるといいのですが」と応じている。
戦争末期を舞台にしていること、また主人公たちが結末で悲惨な死を迎えることもあって、『火垂るの墓』はいわゆる「反戦映画」と呼ばれることも多い。しかし(上の発言で野坂が明快に否定しているように)、この作品は決して「反戦映画」では――少なくとも「戦争に反対する」ために作られたものではない。というよりもむしろ、事態は逆なのだ。清太と節子は、その最後の日々を「充実した時間」として過ごす。しかもそれは「昭和20年」という緊迫した、一種異様な状況でしか成立しないような「充実」だった。彼らは、死を目前にしてそれまで以上に強く光を発する蛍のように――節子は「なんで蛍はすぐ死んでしまうのん?」と問う――彼らのぎりぎりの、極限で営まれた生は、それゆえに光り輝く。

では劇中で、彼らの「光り輝く生」はどのように描かれているのか。それはなによりもまず“暮らしの時間”として描かれる。食材集めから始まって、炊事、洗濯、食事、食器洗い……。ときには夫婦のようにも見え、またあるときには親子のようにも見える清太と節子、2人の生活を、カメラは細やかな日々の雑事とともに追いかけていく。
ここで私たちは高畑監督が、なににおいても“家政”を追いかけてきた映画作家だということを思い返してもいいだろう。東映動画(現・東映アニメーション)を退社後、彼が参加した『長くつ下のピッピ』――この企画自体は原作者・リンドグレーンの許諾を得ることができず、結局中止されてしまうのだが、その『長くつ下のピッピ』のコンセプトを引き継いで構想された『パンダコパンダ』と、続く『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の、世界名作劇場シリーズの3作など、彼は一貫して、劇中で“家政”を描いてきた。
洗濯物を干す『パンダコパンダ』のミミちゃん、『母をたずねて三千里』で描かれるジェノバの人々の暮らし、あるいはマリラに手伝いを言いつけられて皿洗いをするアン、そして極めつけは『アルプスの少女ハイジ』の、チーズを乗せたいわゆる「ハイジのパン」。彼のこうした日常芝居へのこだわりは、よくリアリティ志向の表れだと言われる。もちろんそうした細部のリアリティこそが、高畑のフィルムを支えているのは間違いない。しかし、それだけではなく、たぶん“家政”を通じて描かれる「時間」――そこで営まれた“暮らし”のヴォリューム、ある厚みを持って迫ってくる手触りこそが、高畑のフィルムを特徴的なものにしている。

そして『火垂るの墓』では、その“家政”の手触りが、これまでの諸作とは、また別の意味合いを持って描かれている。

映画の最終盤――節子の死のあと、隣家のレコードプレイヤーから流れる「はにゅうの宿(Home Sweet Home)」とともに、貯水地での暮らしが回想される場面。ブランコに乗り、防空壕のなかを掃除し、木の枝の箒でほこりを掃き出し、七輪の火をうちわで扇いで、そしてシーツを被ってはしゃぎまわる節子。それは、もう決して戻ることができないが、しかしかつて確かにあったはずの幸せの風景(Sweet Home)として、画面を凝視する私たちの前に現れる。
そこでは“暮らし”が、すでに遠く、手の届かない記憶として描き出される。言い換えれば、貯水池で営まれた2人の“家政”は、ファンタジーなのだ。「昭和20年」という紛れもない過去の「ある一点」に結び付けられることで、『火垂るの墓』は“家政”を、現実の(スクリーンを見つめる)私たちから切り離し、記憶のなかへ封じ込める。そういう種類のファンタジーを語ろうとしているように見える。

もうひとつ重要なこととして、上のように回想される『火垂るの墓』の最後の場面に、清太が登場しないことを指摘しておいてもよいだろう。
『火垂るの墓』は全編を通して、神戸の駅で昭和20年に死んだ――そしてその後、幽霊となった清太の視点から語られる物語という形式を採る。それゆえ映画は、基本的に清太の行動を追うことになるわけだが、最後の節子の“家政”の場面において、清太の姿は抹消されている。そしてそのことによって、この場面が清太の(彼岸の)視線によって捉えられていることが強く意識される。その視線の純度の高さこそが、この場面のファンタジーの度合いを高めているのだ。

       *

では、そろそろまとめに入ることにしよう。
『火垂るの墓』の、幽霊となった清太の視線は「昭和20年」という年号と結びつくことによって、そこで描かれる“暮らし”をファンタジーへと転化してみせた。『トップをねらえ!』では、繰り返し「正確に」指し示される年号が、ノリコたちを現実の時間から引き剥がし、彼女たち自身を1万2千年先の「未来」という、ファンタジーの方へと押し流していく。「年号」は彼女たちにとって、取り戻せない過去の象徴である。
そして『ファイブスター物語』では、「年表」があらかじめ開示されているという事実によって、今、私たちの前で起きているひとつひとつの出来事が、取り返しのつかない事件として意識される(アマテラスの脳裏に浮かぶ、かつて無垢なラキシスと遊んだ幸福な草原――Sweet Home!――の記憶……)。それは言い換えれば「年表」がまるで「幽霊」のように、登場人物たちのあれこれを見守っている……という事態にほかならない。
もちろん、個々の作品における語りへのアプローチはまったく異なり、また読者/観客がそこから何を受け取るかも、また異なる。実際、現実の年号(西暦)から語り始める『トップをねらえ!』『火垂るの墓』と、架空の年代記の形を取る『ファイブスター物語』では、そもそも語ろうとしている物語のリアリティが異なる。それもまた当然のことだろう。

にもかかわらず「年号」は、ある種の断念と悔恨と喪失の物語を語る契機、きっかけ、記号として機能する。

ある「点」を指し示しながら、その指し示された先をファンタジー(虚構)として切り離すこと。二度と取り返すことができず、決して手の届かない場所として、「点」から広がる厚み=物語を輝かせるということ……。そこには、私たちが虚構(フィクション)に、何を望んでいるのか、その正体がひそかに反映されているように思える。 


(注)「ユリイカ」2012年12月臨時増刊号「総特集/永野護」に寄せたテキスト。ブログ掲載にあたって、冒頭のブランキをめぐる一文をカットするなど、加筆修正している。『ファイブスター物語』(しかも映画版)にかこつけて、高畑勲監督について書きたいだけだったのが一目瞭然……。いや、発注を受けたときはそんなつもりはなかったはずなのですが。

沙村広明『ハルシオン・ランチ』

これまでも「少女漫画家無宿 涙のランチョン日記」(『おひっこし』所収)などで、ギャグ/コメディ漫画家としての側面を窺わせていた沙村が、本格的に取り組んだ長編ギャグ作品。物語は、人生に煮詰まった中年男・化野元(あだしのゲン!)が、河原で謎の美少女・ヒヨスと出会う場面から幕を上げる。川に釣糸を垂らしならが、自分がこれまでどれだけ苦労してきたか滔々と語る化野。しかしヒヨスは、そんな化野の苦労話を右から左へと聞き流すどころか、化野の唯一の財産であったリアカーを“食べ”てしまう。そう、彼女は未知の惑星から“食べ物”を探して地球を訪れた宇宙人だったのだ……。

とまあ、いかにも不穏な場面から幕を開ける本作だが、河原を舞台にしたギャグマンガといえば古谷実の傑作『僕といっしょ』を思い出さざるをえないし、河原で謎の美少女と出会うというシチュエーションだけ取り出してみれば、中村光の『荒川アンダー ザ ブリッジ』を連想させる。しかし『ハルシオン・ランチ』は、そんな先行する“河原系マンガ(!?)”の系列に収まってよしとする作品ではない。第2話では、化野を窮地に追い込んだ同僚・沖進次と彼の家に寄宿する2人目の宇宙人・トリアゾが登場し、沖と彼女は借金の原因となった女を追って青森に飛び立つことになる。一方、東京に残された化野とヒヨスは、八王子から南の島を経由して、なぜか立川のホームレス村にたどり着き、しかしその頃、沖たちは北の某国で捕らわれの身になる。書いていて自分で何を言っているのかよくわからなくなってきたが、つまり物語は決して直線的に突き進むのではなくジグザグに、まるでアミダクジで遊ぶがごとく行き当たりばったりに右往左往し、そして当初はまったく想像もできなかった場所――人類の再誕生という終幕へと読者を導いていく。

……と、このように整理してみると『ハルシオン・ランチ』は――現代を舞台にしたギャグと時代劇というまったく異なるジャンル、外見に関わらず、『無限の住人』によく似た構造の作品なのだ。もちろん笑いがベースにある『ハルシオン・ランチ』の方が『無限の住人』より、格段にテンポが早い。そして何より、ページの隅から隅までびっしりと描き込また大量のネタ。他作品のパロディはもちろんのこと(というか、そもそも本作は『荒川アンダー ザ ブリッジ』のパロディ/本歌取りとして始まったのではないかと思う)、時事ネタ、読者の予想を軽々と裏切るナンセンスな展開、雑誌掲載という形式を活かしたギミック(ヒロインの裸を隠す払込取扱票!)などなど、これでもかといわんばかりにアイデアが盛り込まれている。

というかこの大量に詰め込まれたネタが、飛躍に次ぐ飛躍を見せるストーリーラインへのツッコミとして機能する。そこが『ハルシオン・ランチ』の――そしてギャグ漫画家としての沙村の、チャームポイントだ。終局に向かってまっすぐ進むのではなく、横へ横へと物語が逸脱しながら、しかしその逸脱を大量の饒舌で埋め尽くしてしまうこと。そしてその饒舌が、横へとズレる逸脱=運動に対して「どないなっとんねん!」とツッコむ機能を果たすこと。優れた物語作家は、笑いの感性にもまた長けているものだが、言い換えれば『ハルシオン・ランチ』からツッコミを取り除いて、グッと物語の進行スピードを落とせば『無限の住人』や『ブラッドハーレーの馬車』が現れる。そんな気がしてならない。

インタビューによれば本作の連載は、ほとんど偶発事のようにスタートしたというが、もしまたチャンスがあれば、沙村にはこうしたナンセンスな喜劇をもう一度、描いてほしい。心からそう思う。

(注)「Febri」第17号掲載の、沙村広明インタビューに寄せた作品評のうちの1本。

沙村広明『無限の住人』

『無限の住人』を読むのは楽しい。しかしそれは単純に、シンプルに「面白い」というのとは違って、なんというか「快楽の漸進的横滑り」とでもいうべき面白さがある。
もともとこの「快楽の漸進的横滑り」というのは、ヌーヴォー・ロマンを代表する作家、アラン・ロブ=グリエが監督した映画のタイトルなのだけれど、それとは(あまり)関係なく、ただただ気持ちのよい絵と物語の連鎖が、積み重なるでも上昇するでもなく、まるで逃れられない力に引っ張られるように横へ横へと滑走する。目的地への到着は延々と遅らされ、迂回され、しかもそうこうしているうちに目的地が本当にそこだったのかさえもが怪しくなり、しかしそのもどかしさがまた心地よい。

『無限の住人』は、まずもっと“不死者”の物語である。主人公のひとり、万次は義憤に駆られ、上司である旗本・堀井重信を斬る。そうしてお尋ね者になった万次は彼を追う同心たちを斬ったことで「百人斬り」の汚名を帯び、さらに八百比丘尼によって血仙蟲を移され、不死の身体を得る。こうして始まった物語は、本来であれば、彼が“不死”から解放される場面で終焉を迎える……はずである。が、物語の最後まで併走した読者ならばおわかりのとおり、『無限の住人』はそのような終わり方をしていない。物語の目的地は微妙にズラされ、そして思いもがけない終幕を見る。

あるいは『無限の住人』は、単純な勧善懲悪とも違う倫理を描こうとする。そもそも万次は「悪党を千人斬る」ことで、血仙蟲から解放されるはずである。しかし“悪”はそれほど確固としたものだろうか? 本作の敵役にして逸刀流の当主・天津影久は、万次が知り合った娘・浅野凜の両親を惨殺した“極悪人”として、まずは姿を見せる。にもかかわらず物語が進むにつれて、彼の“悪”がいわば理想――武士の矜持!――を追い求めた結果だったことがわかる。しかもその“悪”が時の権力によって翻弄され、半ば自壊するように潰滅するにいたって、善悪の基準は完全に瓦解する。万次が求め、斬るべき“悪”は、(厳密には尸良を除いては)物語のどこにも存在できなくなってしまうのだ。

そしてまた『無限の住人』は“復讐”をめぐる物語でもある。先に触れたようにこの物語を駆動するのは、ヒロイン・浅野凜の影久への復讐心だ。しかも彼女は物語開始早々に影久を殺す機会を得るのだが(第3巻)、己の実力不足からそのチャンスを逃し、その後も再三再四に渡って、影久を殺し損ね続ける。そして第13巻、加賀から江戸へと帰る途上で繰り広げられる大殺陣。その末尾で、彼女は決定的な台詞を口にする。「逸刀流が最後にどこに到達するとしても待ってあげるわ」と。
ここに来て『無限の住人』は、「凜の(ある意味、単純明快な)復讐譚」から「影久の死すべき瞬間を待ち続ける凛の物語」へと変貌する。しかもこの時点で、物語はまだ折り返し地点にさえ到達していない。彼女が「待ち続ける」間、万次は幕府に捕らえられ、人体実験の対象となり、逸刀流や無骸流の剣士たちは、次々と血しぶきを上げながら散っていく。物語はほとんど、最後まで生き残ることができるのは誰なのか。命を賭けたサバイバルバトルの様相を呈し始める。

来るべき終焉に向かってじりじりと描き進められる絵と言葉。白い紙の上にペンで、鉛筆で描かれる、凄惨な殺陣と各自が抱える悲しい事情。描けば描くほどに増殖していくエピソード。それでもまだ「終わることができない」。そのときマンガを描くことは、ほとんど“戦い”のように見えてくる。そして『無限の住人』の読者は、そんな“マンガを描くという戦い”を、これ以上ない快楽とともにくぐり抜けるのだ。

(注)「Febri」第17号に掲載された「沙村広明インタビュー」に寄せた、作品評のうちの1本。インタビュー自体も面白い仕上がりになって、最近の書き仕事のなかでは満足している記事のひとつ。