2013年6月13日木曜日

私たちはいつまでも「ガチか、ガチでないか」をめぐって、無駄なおしゃべりを続ける。

 少し前にTLで話題になった「アニメにおけるリアリティ」について、ぼんやりと考えをめぐらせていて――これは、個人的な興味の対象でもある70年代の高畑勲監督作品とも深く関係する事柄でもあるのだけれど、結局のところ、「本当のこと(リアリティ/写実性でも、アクチュアリティ/迫真性でもいい)」というのは、(近代においては?)宗教に近い機能を果たしていたのかもしれない、と思う。

 もちろんそこには、確固たる基準(何が写実的で、何が写実的でないのか)を求めることはできなくて、でも曖昧模糊とした「本当らしさ」というものはある。その中途半端なありようこそが、近代という時代の産物なのだろう、とはいえる。

 だから私たちは、いつまでも「それがガチか、ガチでないか」をめぐって、無駄なおしゃべりを続ける。

 たしかにそのアイドルグループのドキュメンタリー映画は「ガチ」に見えた。彼女たちが真剣にステージに向かう、吐き気がしそうなほど緊張感に包まれた「ガチ」具合に、ぎょっとさせられた。そこでは、「ガチ」であること――「本当らしく」見えることにすべてが賭けられていた。涙を流して謝罪する映像の彼女は、いかにも「撮影の直前に自分で刈った」ような、ザンギリ頭をしている。……ここでも「ガチらしさ」がある基準として、円滑に機能している。

 「ガチ」というのは、もともと相撲用語(ガチンコ)だけれど、プロレスの世界に持ち込まれて、それがある種の「基準」として機能するようになったのは、90年代に入った頃だっただろうか。いや、80年代の中盤からその気配はあったかもしれない(第一次UWFの設立が84年)。プロレスが本来の娯楽性を薄めて、「本当の格闘技」を目指したのではない。「本当らしさ」が娯楽の一要素になったのだろう。

 ボードレールは「1859年のサロン」で、こんなふうに書いている。

「私は透視画(ディオラマ)の方へ連れ戻されたいと希うのですが、その乱暴で度外れな魔術は、私に有無をいわせず一つの有用な錯覚(イリュジオン)を突きつけることができるのです。私は、そこに私にとってこの上もなく愛しい夢たちが芸術的に凝集されているのが見出されるような、何かしら芝居の書割を眺める方が好きです。こうした物の方が、偽りであるがゆえに、真なるものに無限に近いのです」。

芝居の書割を、うっとりと眺めて、恍惚とするボードレール。

 たぶん私たちは問いの設定を変えるべきなのだろう。問うべきは「それが本当のことなのか?」ではなくて、「その本当らしさは、いったい何を目的としているのか?」なのだろう。


(※)峯岸みなみの謝罪騒動のときに、Facebookに書き込んだ文章(ちょっとだけ修正しました)。文中に出てくる「高畑勲監督作とリアリティの関係」については、藤津亮太が主宰するブロマガ「アニメの門ブロマガ」で連載中の、「“日常系”の再学習――70年代の高畑勲」で考察しています。じりじりと。これを書いたときよりは、ちょっとは前に進んでるかな……。 http://ch.nicovideo.jp/animenomon/blomaga/ar247686