2013年5月25日土曜日

「鏡」としての『攻殻機動隊』 ――2つの映像作品をめぐって

 士郎正宗のコミック『攻殻機動隊』を原作とした映像化作品には、大きく2つのシリーズが存在する(公開目前となる黄瀬和也総監督の『攻殻機動隊ARISE』は、いわば3番目のシリーズとなる)。まずひとつ目は、押井守監督による劇場作品『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(95年、以下『GHOST IN THE SHELL』)および、その直接の続編にあたる『イノセンス』(2004年)の2本の映画作品。ふたつ目が、神山健治監督によるテレビシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(2002~03年)と続編の『2nd GIG』(2004~05年)、そしてテレビシリーズの成功を踏まえて制作された長編作品『Solid State Society』(2006年)である。本稿では、これら2つのシリーズと原作がどのような関係にあるのか、簡単に振り返ってみたい。

 押井守監督の『GHOST IN THE SHELL』のベースとなっているのは、原作の第1巻である。冒頭に置かれたプロローグ、電脳ハッキング事件を追う第3話「JUNK JUNGLE」と人形使い事件を扱った第9話「BYE BYE CLAY」、そして第1巻の締めくくりとなる第11話「GHOST COAST」といったエピソード群が、いくつかの重要な改変を加えられながら、本編中に織り込まれている(例えば、高層ビルから飛び降りた草薙素子が光学迷彩を起動させ、ゆっくりと摩天楼に溶け込んでいく場面――『GHOST IN THE SHELL』を代表するといっていいこのアクションは、原作第1巻の冒頭のシーケンスを映像化したものだ)。
 また原作から引かれているセリフが多いのも、この映画版の大きな特徴だろう。本作のイメージを決定づけたといってもいい、素子の「そうしろとささやくのよ、私のゴーストが」「ネットは広大だわ……」といったセリフはもちろん、映画のクライマックスであり、また原作の白眉のひとつでもある素子と人形使いの対話(p333)は――前後のシチュエーションは異なるものの、かなり原作に忠実な形で用いられている。
 言い換えれば、この映画で押井が試みたのは――彼の代表作である『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』(84年)がそうであったように――いわば「原作のエッセンスを取り出しながら、自分の文脈に引きつけ昇華すること」だったといえる。そしてそのエッセンスを具体的に指すならば、「生物と無生物の間に境界線を引くこと」をめぐる思弁だった。
 そしてその中核に位置しているのが、原作でも重要な役割を演じる・謎のテロリスト「人形使い」である。ネットワークのなかでいつの間にか生まれた「自意識(のようなもの)」という設定の彼(?)は、広大なネットの海を泳ぎまわり、いくつもの義体を乗っ取りながら、テロ事件を巻き起こす。
 本来ならば、無生物であるはずのものが、突然、まるで生きているもののように振る舞うこと。人間の意識(GHOST)が情報の塊なのだとすれば、身体(SHELL)という不自由な檻を脱ぎ去り、情報の大海=ネットワークへと溶け込むことも可能なはずだ……。
 しかもそうした思弁は、原作第1巻のラストと『GHOST IN THE SHELL』のラストにおいて、それぞれまったく異なった相貌を見せる。そのきっかけとなるのは、融合を求める人形使いに対して素子が発するある質問だ。
 「なぜ私を選んだの?」。その質問に対して、原作の人形使いは「エン(縁)があったからだ」と応える。思わず素子が「ネット内に仏教辞典でも持ってるの?」と突っ込んでいるように、原作では思弁がガジェットの比喩(別種のイメージ体系)のなかで解消され、止揚される。ひとつの思弁が別のイメージに置き換えられ、それが延々とコピー&ペーストされるような……。士郎による原作版の続編『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』は、まさにそのような無尽蔵な増殖の物語/物語の増殖として読むことができる。
 対して『GHOST IN THE SHELL』がここで持ち出すのは「鏡の理論」である。素子と人形使いは、本人と鏡像のようによく似ている。生物のように見える無生物(人形使い)と、無生物のように見える生物(素子)。情報の海から生まれた身体を持たない生命体と、偽物の身体(義体)のなかに情報を埋め込んだ女……。外見がよく似た2人が、カットバックによって繋ぎ合わされることで、まるで互いが鏡のなかを覗き込んでいるような、そんな印象がことさらに強調される。
 そしてそれを突き詰めた先に待っているのが、素子のパートナー・バトーのセーフハウスでのラストシーンだ。カメラがゆっくり近づいていく先に置かれた子供の人形。物言わぬ人形のように見えた「それ」が、じつは新たな素子の身体(義体)だったことが明かされる瞬間、私たちは言いようのない不安に突き落とされる(原作とは異なる、リアリティのあるキャラクターデザインおよび描写も、そうした印象を強める)。
 アニメーションの基礎をなしているのは「ただの絵=無生物」だ。それが動くことで、私たちは「ただの絵」がまるで「生きている」かのように錯覚する。「生物と無生物の境界」をめぐる問いを、単に思弁(物語)においてだけでなく、映像のレベルにおいても徹底すること。押井が『GHOST IN THE SHELL』のラストで行き着いた場所――そしてその10年後に制作した続編『イノセンス』において再び試みたのは、そうした問いを徹底させることだったのだ、といえる。

 ではもう一方の『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(以下、SAC)』は、いかなる作品だったのか。神山監督が語るようにこの『SAC』は、原作や押井の『GHOST IN THE SHELL』に対して「親戚ぐらいの距離感」の作品として構想された(公式ムック『SECTION-9 FILE:BOOK』所収の、押井守との対談より)。そのとき具体的にベースになったのが、1990~96年にかけて散発的に発表された「公安9課の日常」を扱った短編群である。
 これらの短編群は、のちに『攻殻機動隊1.5 HUMAN ERROR PROCESSER』としてまとめられることになるが、いわば事件の発端から解決までを描く「刑事ドラマ」としての『攻殻機動隊』に着目したのが、この『SAC』だといえる(また脚本陣のひとりとして本作に参加した佐藤大は、最終的に「笑い男事件」へと収束していくシリーズ全体の構成について、『ER』や『ホミサイド』『NYPDブルー』といった海外のテレビドラマを念頭に置いていたと語っている。公式ムック『Official Log2』に所収のインタビューを参照のこと)。
 いわば押井の『GHOST IN THE SHELL』が、原作のエッセンスを映像という形で昇華してみせたとすれば、『SAC』は原作のキャラクター配置と要素をもとにしながら、まったく異なるドラマを組み上げることに主眼があった(そうした理由からか、原作がそのまま使われている部分はほとんど存在しない)。
 そしてこの変更の鍵を握るのが、テレビシリーズの冒頭に置かれた次のセリフだ。
 「電脳化が一般化され、情報ネットワークが高度化するなかで、光や電子として駆け巡る意思を一方向に集中させたとしても、「孤人」が複合体としての「個」となるまでには情報化されていない時代」。原作の冒頭に置かれた「企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても、国家や民族が消えてなくなる程、情報化されていない近未来」をもじったものだが、注目すべきは「「孤人」が複合体としての「個」となるまでには情報化されていない」という一文だろう。
 ここでは、原作や『GHOST IN THE SHELL』が描いていたものが「複合体としての「個」」――ネットワークの海に溶け込んだ素子――だったことを踏まえつつ、そうなる前の時代、「孤(独な)人」がまだ存続しえた時代を舞台にしていることが宣言される。
 それはこの宣言はまた、『SAC』とその続編『2nd GIG』が、人と人とのコミュニケーション(の不可能性)を描き出そうとしていた、その理由を明らかにしてくれる。
 『SAC』では、犯人(笑い男)がきっかけを作っただけで、次々と模倣犯が現れ、それらが「社会的正義」を行使する様が描かれる。「群れ」になった人間の醜さとそこから「孤立」しようとする者の孤独。一方の『2nd GIG』では、難民に対する社会的な差別・排除と、そこに疑問を感じ、ひとり立ち上がるテロリスト・クゼの姿が描かれる。クゼが同じ志を持つ者として素子を求める場面は、人形使いと素子の関係に極似しながら、決定的にロマンティックだ(また『2nd GIG』の第11話「草迷宮」において、今まで決して語られることになかった素子の過去と思しき場面が描かれるのもこのシリーズならではだろう)。
 そうしたロマンティシズムは、シリーズ2作を踏まえて制作された長編『Solid State Society』にも――特に、娘の命を救うために身を投げ出そうとするトグサのシーンに、色濃く受け継がれている。そこでは「手をつなぐ/離すこと」が、人と人との「絆」の象徴として、ドラマティックに描き出される。こうした――ある意味、エンタテインメントに徹した展開は、原作にも『GHOST IN THE SHELL』にもありえなかったものだろう。そしてまたそのエンタテインメント精神は、本作をもとにした衣谷遊によるコミカライズにも、しっかりと引き継がれている。

 『攻殻機動隊』という同じ原作をもとにしながらも、独自の展開を見せる2つのシリーズ。それぞれ、監督の個性が十二分に発揮されたシリーズだと言うことができるが、それはまた言い換えれば、『攻殻機動隊』がそれだけの度量を持ち、また作り手の意図によってさまざまに風貌を変える――まさに「鏡」のような作品であることを、私たちに示唆しているのかもしれない。


(注)
「SFマガジン」2013年7月号「攻殻機動隊」特集に寄せたもの。編集部からは、士郎正宗の原作について概要をまとめてほしいという発注だったが、何を勘違いしたか、映像作品と原作の関係について書いてしまった。実際にはリテイクの上、発注に沿った第2稿が掲載されている。