2013年11月2日土曜日

アキバの歩き方――メイド編

電気がなくちゃアタシ何もできないから
……というのは、SPANK HAPPYの「アンニュイ・エレクトリーク」の一節なのだが、メイドさんたちでいっぱいのアミューズメントパーク=秋葉原とこの曲は、なんだかすごく似合う。
 どんより曇ったお昼ちょうど過ぎ。昭和通り口で降りて、最初のメイド喫茶「ぴなふぉあ」に向かう。“最初の”って時点で何か間違えてる気がするが、店頭の写真を押さえたあと、朝から何も食べてなかったので、中に入ってアイスコーヒーとペペロンチーノ。お店のつくりはカウンター半分、テーブル席半分。メイドさんの姿がよく見えるカウンター席には常連さんが3人ほど座っていて、楽しそうにおしゃべりしてる。肝心のメイドさんは、たぶんコスプレイヤーなんだろうなあと思わせる感じの女の子がふたり。けっこう可愛い。
 ただ足元が不安定な気がしてて、コーヒーを運んでるときの、ちょっとおっかなびっくりな感じ。あれ、厚底の靴を履いてるからなのね。そっかー、とか思う。

 だらだらメイドさんを見てるのも飽きたので1時間くらいで2軒目に移動。お次はこの(注:2005年)6月にオープンしたばかりの、英國式メイドリフレクソロジィのお店「MeltyCure」。取材ということで開店前に入らせていただいたのだけれど、受付の横に狭い待合室があって、そこで置いてあった雑誌をパラパラめくっていると「準備ができましたー」。店長さんの案内で個室に通される。マッサージチェアに横になって、まずはフットバス、それからハンドリフレ。基本は25分なのだが、今日はお試しということで15分。
「どんなお客さんが多いんですか」
「20~30代、やっぱり男の方がほとんどですねー」
「マッサージってやっぱり講習とかあるんですか」
「週1回先生に来てもらってるんですよ。あとは、女の子同士で練習したり」
「けっこう力も必要だし、疲れそうだなあ」
「そうですねー」
 とかいってるうちに、15分はあっという間に終了。えっ、もう終わりなの? なかには基本コースをダブル(25分を2回)で入るお客さんもいるらしいのだが、その気持ちはよくわかる。メイドであろうがなかろうが、リフレクソロジーは気持ちいい。もちろんメイドであれば、なおのことよい。

 両腕にベビーパウダーの匂いをつけて、駅方面に向かってふらふら歩いていると、メイド服のふたり組の女の子を発見。んん? どっかのお店の女の子が休憩中に出歩いてるのか? とか思うが、どうやら違った様子。コスプレらしい。平日の、昼間にアキバで、メイド服。一句できた。このあと彼女たちとは何度もすれ違ったんだが、いったい何をやっていたのだろう。

 3軒目は、メイド喫茶のなかでも老舗中の老舗「キュア・メイド・カフェ」。秋葉原ガシャポン会館の6階に入っている喫茶店。そう、メイド喫茶というよりはむしろ、喫茶店なのである。ここの経営はコスパがやっていて、もともとは2階のコスパショップとの連携ができて、常設できるお店……という発想から、喫茶店にたどり着いたらしい。「ここができた当初は、秋葉原に飲食ができるお店がほとんどなくて。で、喫茶店ならちょっとした休憩もできるし、打ち合わせスペースにも使える。これはいいよね、と」。だから店内にアニメソングもかかってないし“ふぅふぅ、あーん”もない。言ってみれば、ウェイトレスがメイド服を着てる喫茶店。「女性の方だったり、家族連れのお客さんも多いですね。土日だと、外の階段に1階までずらーっと行列ができることもあって、本当に申し訳ないなあと思います」。

 取材を終えて外に出ると、もう暗くなりはじめている。中央通りを歩いて「メッセサンオー同人館」と「とらのあな」をひやかす。とても誌面に載せられないようなドギツイエロCG集を買おうかと思うが、ふと横を見ると『メイドさんを右に』という同人ゲームを発見。せっかくのメイドデーだし、買って帰ろう(かなり思考能力が弱まってる)。ついでに『ハバネロたんハウス』を購入。歩いてるだけで、荷物が増えていくな、この町は。
 最後は、秋葉原の駅を突っ切って再び昭和通り口へ。コスプレメイドバー「basicBar bB」。こじんまりとした店内は、完全なショットバースタイル。せっかくなので、マリアさんにオリジナルカクテルをつくってもらって写真撮影。なんかもう、メイドとかメイドとかどうでもよくなってくる。店内のテレビで流れてる『パイレーツ・オブ・カリビアン』が、すげえ面白そう。窓の外はすっかり暗くなってて、ネオンサインがやたら綺麗だ。
もうこの退屈な国ではセックスもあと少しで絶滅しちゃいそう
ほらみんな恐がりだし
ねえ神様?(SPANK HAPPY「アンニュイ・エレクトリーク」)
 うん、確かにそうかもしれない。キラキラ光って、かわいい女の子やメイドさんたちでいっぱいの電気の国。駅に向かってとぼとぼ歩いてたら、突然誰かのカン高い笑い声が聞こえた。


(注)「CONTINUE」Vol.23「秋葉原大特集」に寄せたもの。当時(2005年)、ぽこぽことできはじめていたメイド喫茶・関連店舗を見て歩く、という、なんの工夫もないリポート記事。秋葉原の町並みも、すっかり変わりました。

世界と繋がる、もうひとつの冴えたやり方――『ジョジョの奇妙な冒険』をめぐって

 メディア・アーティストの八谷和彦が2005年から始めた新しいシリーズ「フェアリーファインダー」は、“見えないものが見える”ということをモチーフにした、とてもユニークなシリーズだ。
 現在までに「コロボックルのテーブル」など、4作品が発表されているこのシリーズでは、特殊なレンズを通すことで、肉眼では見ることのできなかった“存在”たちが、写真や映像の向こうに、ふいに出現する。偏光レンズの向こう側で、クルクルと舞い踊る妖精や人魚たち。
 その光景は、不思議な磁場で僕たちの心を惹きつける。

 ……すぐそこにいるはずなのに、見えないもの。眼には映らないけれど、でも確かにそこに存在している何か、について。もしかすると世界のあちこちに偏在しているのに、でも僕らには(どういうわけだか)見ることのできない「妖精や小びと」たち。
 その存在を想像してみる、ということ。

         *

 1987年の連載開始から、現在まで描き継がれ続けている、長編(というにはあまりに長大な)コミック『ジョジョの奇妙な冒険』。作者の荒木飛呂彦は、記念すべき第一巻の前書きに、こんな言葉を書きつけている。
はっきり言うと、この作品のテーマはありふれたテーマ――『生きること』です。
 対照的なふたりの主人公を通して、ふたつの生き方を見つめたいと思います。『人間』と『人間以外のもの』との闘いを通して、人間讃歌をうたっていきたいと思います
……人間讃歌! 19世紀のジョナサン・ジョースターとディオ・ブランドーの確執から、孫のジョセフ、さらにその孫の空条承太郎や娘の徐倫、あるいは隠し子の東方杖助へ……。まるでバトンを受け渡すように、描き継がれてきたジョースター家とその周囲の人々(正確に言うと、現在連載中の第七部は違うのだけれども)。その血と暴力にまみれた系譜の、いったいどこに“人間讃歌”が? ……と、訝しく思う気持ちがないではない。
 でもその一方で、この宣言文は実は結構、本気だったんじゃないか、とも思う。少なくとも『ジョジョ』の物語は、一貫して「『人間』と『人間以外のもの』の闘い」を描き続けているのは、確かなのだから。

『ジョジョ』の長大な物語には、ひとつ大きな切断点がある。
 それはよく言われるように、第三部において導入されて、さらに第四部以降において全面展開することになる「幽波紋(スタンド)」という存在なのだが、その詳細を見る前に、第一部と第二部が、どのような構造に則って描き進められていたのか、今一度、確認しておこう。
 すでに原作をお読みの方ならばご存知の通り、第一部はジョースター家の家督をめぐる戦いとして、まずは描き始められる。
 心正しき貴族の息子として、すくすくと育ったジョナサンと、社会の最底辺で憎しみと呪いのなかで育った養子のディオ。ディオは、その恨みを晴らすべく、父ジョージの殺害を企て、ジョースター家を自らの手中に収めるべく、計略を張り巡らせる。
 ここで争われているのは、単純に言うと“いかに生きるか”という闘争だ。貴族として“よく生きよう”とするジョナサンと、欲望のままに“善悪を超えて生きよう”とするディオ。しかしふたりの争いは、石仮面の登場によって、さらに違うレベルへと突き進む。
 石仮面は、それを被った人間を吸血鬼へと変えてしまう。人間業とは思えない力とスピードを持ち、人の血をすする吸血鬼へ。石仮面を被ったディオは、人として“善悪を超える”ばかりでなく、人間を捕食し、不老不死に最も近い“怪物”――荒木の言葉を借りれば「人間以外のもの」へと、姿を変える。
 人間と、人間以外のものの闘い。
「波紋」とはいわば、人間が人間以外のものに対抗するための武器のことだ。生命エネルギーの源である“太陽”の力、あるいは人が生きていることの証である“呼吸”の力によって、食物連鎖の外へ出てしまった“怪物”を倒す。生の力によって死を祓う。『ジョジョ』の第一部で提示される対立構造は、これ以上ないほどに明瞭かつシンプルだ。
 この構造は、続く第二部、第三部においても、基本的に踏襲されていくことになる。
 第二部の敵となるカーズたちは、エイジャの赤石を手に入れ、究極の生命体となることを目的としていた。ありとあらゆる生命体の上位の座につき、永遠の生を謳歌するということ。事実、第二部の最後で、ついに目的を果たしたカーズは――地球の外へと放逐されるものの――永遠の生を手に入れる。
 そこへと至る闘いは、ほとんど神話に近い。圧倒的な力を誇る神々に、抗い傷つき、死んでいくヘラクレスたち。ジョセフたちがつねに、相手を裏を突く“知恵”を最後の武器にしていたのは、そんな「人間らしさ」の表れでもある。
 さらに第三部では、こうした構図がより先鋭化された形で提示される。承太郎たち一行を追う敵は、タロットカードやエジプト12神になぞらえて形式化され、百年の眠りから目覚めて復活したディオは「ザ・ワールド」と呼ばれるスタンドを使って、未来永劫にわたって人々に君臨することを宣言する。
 ここにきて、ジョジョたち=「人間」に対峙するのは「世界」そのものとなる。

         *

 キリスト教の中心的教義のひとつ「三位一体」は、よく考えてみると、なんだかとても奇妙なものに思える。
「父なる神」と「ロゴス(世界を構築する論理)である子なるイエス・キリスト」、そして「聖霊」。三つはそれぞれ自立した位格でありながら、同じ実体を持つという。
 これはいったいどういうことなのだろう?
 特に問題なのは、三番目の「聖霊」だ。キリスト教の本を読むと、この聖霊は、神と人をつなぐ媒介物のようなイメージで描かれることが多い。つまり、神託を下す神と、それを受ける人々と、その両者の隔たりを越えて言葉を伝える聖霊、というイメージ……。
 しかし、実際に聖書を読む――特に、旧約聖書の『ヨブ記』のような経典を読むと、そこには、あまりにも圧倒的な力で翻弄する神(と悪魔)と、そしてそれにも関わらず、信仰を捨てない人々の姿が、鮮烈なイメージとなって記憶に残る。盗賊によって財産を奪われ、落雷によって家族を失い、皮膚病に苦しめられ、のたうちまわるヨブ。
 彼にとって、世界はまさに不条理以外の何物でもない。そして彼は、この不条理が神によって課せられた試練であることを、明瞭に意識している。
 大いなる神の意思に人生を左右され、それでも信仰を捨てなかったヨブ。そこには、聖霊の入る余地はなさそうに見える。

 かつて東浩紀は「郵便的不安たち――『存在論的、郵便的』からより遠くへ」と題された講演で、ジャック・ラカンにならって、この世界のあり様を三つに文節化してみせた。
 非常に遠くにある抽象的なもの――例えば世界の破滅とか――が属する「現実界(ル・レエール)」と、その逆に肉親や恋人との関係のような、私たちの非常に近くにある「想像界(リマジネール)」。そしてその間を媒介し、言語的コミュニケーションを成立させる「象徴界(ル・サンボリック)」。
 さらに東は、アニメーション監督の幾原邦彦の言葉――いまの10代は、恋愛や家族のようなきわめて身近な問題と、世界の破滅のようなきわめて抽象的な話とがペタッとくっついている――を引きながら、「象徴界」の衰退=社会や国家といったレヴェルの機能不全が起こっているのではないか、と述べる。
 ここで「人間関係と『世界の終わり』を短絡する」作品として、東は、新井素子の小説『ひとめあなたに…』を取り上げているのだが、まさしく今、「セカイ系」と呼ばれるような一連の作品群――その発生の原因を、正しく分析しているという点で、この98年に行われた講演は、しっかり時代の流れを捉えていたように思う。
 問題は、ラカンが言うところの「象徴界」が――人と世界をつなぐ媒介物、コミュニケーションの回路が、「社会」や「国家」だけを指していたのか、というところにある。

         *

 スタンド(幽波紋)の導入が、『ジョジョ』の物語を複雑にした、という意見をよく聞く。と同時に、個人のファンサイトなどを見ていると、登場スタンドを細かく分類、掲載している人も多いし、熱心な『ジャンプ』読者のなかには、連載当時「読者が考えたオリジナルスタンド」の募集が行われたことを、覚えている人も多いだろう。
 一体、スタンドとは何なのだろう?
 第一義的に言えば、スタンドとは「波紋」の力が幽体化したものだ、といえる。第一部、第二部において“人間”の、あるいは“生あるもの”の力の象徴であった「波紋」は、第三部において(一部の能力者だけに)可視化し、個々に多様な能力を持った「スタンド」へと変貌を遂げる。攻撃に特化したもの、群れをなしているもの、物質と一体化するもの、鎧のように身を守ってくれるもの……。
 ディオとジョースター家の闘争と決着を経て開始された第四部以降は、この傾向はさらに顕在化し、『ジョジョ』の物語は、有象無象のスタンドたちが跳梁跋扈する、いわばスタンドたちの競技会のような、そんな物語へと変貌を遂げる。
 スタンドは、人間の力の延長であることを辞め――というか、ディオやカーズのような対抗すべき“絶対悪(あるいは「世界」そのものとして振舞う不条理=神)”を失って、スタンドとスタンド使いたちは、自らの技と能力と知恵と度胸を試すように、物語へと参与していく。
 いやむしろ、これは物語ではなく、一種の“サーカス”とでも言った方がいいのかもしれない。
 人は、スタンドを通して、ほかのスタンドやそれを使う人々と、ときにぶつかりあい、ときにコミュニケーションを図りながら、世界を形づくっていく。その終わることのない戯れ。神のいなくなった場所で繰り広げられる、人々と精霊たちのダンス。

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 宇野常寛は『SFマガジン』誌上で連載中の評論「ゼロ年代の想像力」において、“社会”や“国家”といった「象徴界」を失った人々は、その想像力の矛先を「想像界」と「現実界」を直結させるセカイ系を経由して、さらにその先へ――個々の決断によって事態の打開を目指す、決断主義的バトルロワイヤルへと至った、と述べている。彼が引用する『DEATHNOTE』や『コードギアス 反逆のルルーシュ』は、まさに“神の座”=「現実界」を、自らの手中に収めんと闘争し、結果、挫折していく少年たちの物語として読み解くことができる。
 そこで宇野は、ポスト決断主義の処方箋として、宮藤官九郎や木皿泉らが試みた“一種の虚構としての共同体”への回帰を提示する。宮藤がテレビドラマ『木更津キャッツアイ』で描いた、ある時期に存在した楽園としての“木更津”。木皿泉が同じくテレビドラマ『野ブタ。をプロデュース』で描いた、優秀なプレイヤーであれば書き換え可能な舞台装置としての“教室”。いずれも“虚構”であることをわかっていながら、あえてそこに参入する“共同体”として、僕たちの前に現れる(その態度は、「あえて伝統主義者として振舞う」ことを選んだ、かつての宮台真司や福田和也の行動を、ふと想起させる――まあ、これは前述の東の講演で、すでに指摘されていることなのだが)。

 しかし、本当に選択肢はそれだけしかないのだろうか? 虚構としての共同体を通して、生の現実を勝ち取るというルートしか、存在しないのか?

 ここで僕は、すでに失われてしまったという「象徴界」に「聖霊」という言葉を代入してみたくなってしまう。僕たちのすぐそばにいて、でも見ることのできないもの。見ることはできなくても、確かに世界のあちらこちらに偏在していて、僕たちを世界につなぎとめている“存在”。それを、聖霊と呼んでも、あるいは精霊、幽霊、妖怪、妖精――そしてもちろん「スタンド」と呼んでも構わない。
 ある種の親密さを身にまといながら、しかし決定的に人と違ったレヴェルに属し、ときに人を惑わせたかと思えば、ときに恐怖させ、しかし紛れもなく、世界と人をつないでいる“何か”。そんな“何か”を介して、他者と、世界とコミュニケーションする、ということ。少なくとも、その可能性を探り続ける、ということ。

 共同体の代わり(オルタナティブ)として、ありうるかもしれないコミュニケーション手段としての「スタンド」。

 冒頭で紹介した八谷和彦の「フェアリーファインダー」シリーズが、どうしようもなく僕たちの心を惹きつけるのは、まさしくそんな(ある意味、空想的な)可能性を、僕たちに突きつけてみせるからだ。
 人と人でも、人と神でもなく、人と聖霊/妖精の関係を切り出してみせる八谷の手つきは、確実に“今”という時代に欠如しているものを指し示している。それは「視聴覚交換マシーン」から一貫して、ありうるかもしれないコミュニケーションの様式を探り続けている、彼らしい発想でもあって、なんだか妙にハッとさせられたりもする。
 精霊たちの声に耳を傾け、目を凝らして姿を追い、あるいはその存在を皮膚で感じ取り、あるいは想像してみるということ。それは、共同体に自閉しがちな僕たちの感受性を、確実に刷新してくれる。そしてそのとき『ジョジョの奇妙な冒険』という作品は、スタンド/精霊と人が戯れる“奇妙な冒険”へと、僕たちを誘ってくれるように思うのだ。

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 最後に、『ジョジョの奇妙な冒険』は、単に精霊と人の関係を捉えなおした作品というだけには留まらないことを、指摘しておくことにしよう。
 空条承太郎の娘・徐倫を主役に据えた、第六部「ストーンオーシャン」の宿敵・プッチ神父は、まさに宇野が示唆する決断主義的な作品群に登場しそうなキャラクターとして設定されている。
 ディオから、全人類を幸福に導く「天国へ行く方法」を託された彼は、その徹底して苛烈な“決断”によって、ついには、すべてが一巡してしまった「新たな宇宙」を作り出すまでにいたる。彼はまさしく、新世界の神となってしまうのだ。究極まで加速された時間を、堅強な意思によって乗り越えようとするプッチ神父の姿は、ほとんど「神が死んだ」あとの世界で、永劫回帰を唱えたニーチェの、超人思想をそのまま体現したようにも見える。
 さらに続く第七部「スティール・ボール・ラン」においては、第四部以降破棄された、“不条理な神としての世界”を、改めて(もしかすると、喜劇/パロディとして……?)描き出そうと、しているようにも見える。果たして、この物語がどのような結末を迎えるのか、まったく予測がつかないが、いまだ『ジョジョ』は、僕たちの想像力を刺激し続けているのは、確かだ。



(注)「ユリイカ」2007年11月臨時増刊号「総特集/荒木飛呂彦」に寄せたテキスト。ブログ掲載 にあたって、加筆修正した。執筆者のひとりでもある泉信行には「何について語ろうとしているのが良くわからずじまい」と言われてしまったのだけど( http://d.hatena.ne.jp/izumino/20071116/p1 )、要するに、スタンドというのは「コミュニケーションの媒介」なんじゃないか? という話でもある。これは『ポケットモンスター』が、なぜポケモンという「媒介」を要請したのか? という問題とも通じているんだけれど、まあ、あんまり理解されるような話ではないんだろうな、とも思う。