2013年7月20日土曜日

石黒正数『木曜日のフルット』

人気連載マンガの長期化が指摘されるようになって久しい。

単行本の巻数が2ケタに達する作品も多く、またなかには50巻を越えて、いまだ結末が見えない作品も多い(特に週刊少年誌はその傾向が強い)。その裏には、固定ファンのついた作品を終了したくないという作者・出版社側の事情もあるのだろうし、またいつまでも作品世界に浸っていたいという、読者側からの欲求もあるだろう。いずれにしろ“連載の長期化”には「延々と語り/語られ続けること」に対する、妥協と開き直りが――言い換えれば「終わらせること」への怯えが透けて見える。

「週刊少年チャンピオン」に連載されている『木曜日のフルット』は毎回、2ページ(見開き)――わずか10~13コマで1本のエピソードが完結するというスタイルを採っている。主人公は、どこか『ネムルバカ』の登場人物を連想させる無職の女性・鯨井サナ。彼女と彼女が偶然拾った、への字口のネコ・フルットとの日常(?)が綴られていく。

あるエピソードでは、鯨井と彼女を慕う整体師・頼子、そして鯨井がたまにアシスタントのバイトをしているマンガ家・白井先生らとの賑やかなドタバタ騒ぎが繰り広げられ(しっかり者のように見えながら、意外と抜けている頼子のキャラクターもいい)、そうかと思えば、別のエピソードではフルットと近所のノラ猫たちとの、どこか呑気なサバイバル生活が描かれる。ときに人間の、またあるときにはネコの視点から(そしてまた別のときには、幽霊や河童の視点から!)綴られるエピソード群。

それらは、見事なまでに1話ごとに「完結」している。

ページをめくるたびに、新たな物語が始まり、そして「終わる」。ここには「だらしなく、いつまでも語り続けていたい」という欲求は微塵も存在しない。出てくる登場人物がすさまじいダメ人間だったり(働かずに生きていたいと考える鯨井先輩!)、あるいは今日の夕飯をめぐってフルットたちが醜い争いを繰り広げる――といった些細な内容にも関わらず、いやむしろ些細な内容であるがゆえに、この潔い「終わり方」には本当に驚かされる。
 まるで一筆書きのように鮮やかで、凛とした佇まい。だからこそ『木曜日のフルット』を読むのは――特に単行本を一冊通して読むことは、ひどく疲れる体験でもある。だが、その疲れは清々しく心地よい。

今のマンガシーンにおいて、小田扉や石川雅之といった「物語巧者」と肩を並べる、数少ない作家のひとり・石黒正数。そのエッセンスを凝縮したのが、この『フルット』だと思う。


(注)
「Febri」第16号に掲載された「石黒正数インタビュー」に寄せた、作品評のうちの1本。

石黒正数『外天楼』

石黒正数はデビュー直後から、ミステリやSFなど、いわゆる「ジャンルもの」に積極的に取り組んできた作家だ。これは彼がギャグ作家――すでに読者に了解済みの事柄を、ひとヒネリすることで笑いを生む――だったということも大きい(このことは例えば、初期短編においてたびたび、お約束の大定番「戦隊モノ」をパロディの対象として取り上げていることからもわかる)。また素人探偵の歩鳥がたびたび“日常の謎”に遭遇する『それでも町は廻っている』など、謎解きを含んだストーリーテリングを得意としてきた石黒だが、そんな彼が真正面からミステリに挑んだのが、この『外天楼』。掲載誌が、現代ミステリの牙城として知られる『メフィスト』だっただけに、この連載に賭ける石黒自身の意気込みが第1話から伝わってくる。

ミステリは、多くの“お約束(コード)”から成り立つ「ジャンル・フィクション」だ。読者は、謎を解く探偵や事件を、一種の“お約束”として受け止め、しかもその“お約束”はときに裏切られ、またときに予想だにしなかった飛躍を見せる。そこにこそ「ジャンル・フィクション」の醍醐味があるのだが、逆にいえばその進行の過程において――事件の発端とその発展、謎と解決といった“仕組み”が、読者にはなにより強く意識される。そして、その“仕組み”がドラマの進捗よりも優先されるがゆえに、往々にしてミステリの登場人物たちは、内面のない人物に見えてしまう。
ミステリ作品に対して「人間が書けていない」という批判が繰り広げられるのは、まさにこうした事態を指しているのにほかならない。

もちろん、こうした批判の裏には「登場人物に内面がある」=「文学的だ」とでもいうような杜撰かつ詰まらない構図が透けてみえるのだが、翻って石黒作品を読むと、彼ほど「人間が書けていない」作家もなかなかいない。もちろん、石黒作品のキャラクターたちにも喜怒哀楽はある。しかし何より重要なのは、そんな彼らがときに「物語を語る/騙る」ための装置=“仕組み”のように見えてくる、というところにある。

例えば『外天楼』の第4話「面倒な館」。「外天楼」と呼ばれる複雑怪奇なマンションの一室で、死体(名前は下井!)が発見される。事件を「密室殺人」に見立てようとする、新人刑事・桜場冴子。スラップスティックな味わいの強いこの一篇は、全体が「密室トリック」のパロディになっているのだが、なにより「密室殺人」の検証のため、上司の山上が強要されるアクロバティックなムチャ振りが、とにかくおかしい。別棟の屋根を滑り降り、狭い窓を通って、室内のベッドに着地させられる山上の姿は、まさに文字通り「人間離れ」しているのだ。

そして何より素晴らしいのは、こうしたスラップスティックなミステリのパロディ(ダイイング・メッセージを扱った第5話の、なんとおかしくも馬鹿馬鹿しいことか!)を突破した先に、あまりにも切なく、哀しい展開が待ち受けているところだ。

それまで一見、バラバラに見えていたエピソードが、ある殺人事件をきっかけに、1本の物語へと収斂していく。「連作短編」という形式を使った構成も見事なのだが、ある意味人工的でもある、そうした「ミステリ的な装置」を踏み越えて、読者は“犯人”が抱え込んでいた、ある“真相”へと誘われていく。作品の冒頭から予告されていた、犯人の“事情”。そしてそこから生まれた“愛”が導き出す、どうにもならない結論。そこはミステリという「ジャンル」を愛する石黒だからこそ、到達できた場所だろう。

本作は、真っ白な雪のなかに倒れこむ“真犯人”の姿で幕を閉じる。そこから静かに零れ落ちる、詩情。石黒正数という作家が、本質的にセンチメンタルな作家であることが、真っ白なページに消えかかる、小さな影のゆらめきから伝わってくる。


(注)
「Febri」第16号の、石黒正数インタビューに寄せた作品評のうちの1本。

『エウレカセブンAO』第24話「夏への扉」

『エウレカセブン』において、サッカーは特別な位置を占めている。ボールを蹴って、パスを出すこと。それはすなわち、言葉を投げかけ、託し、相手に賭けることにほかならない。

『交響詩篇』の第39話、フットサルの試合に途中出場したレントンは、エウレカの呼びかけに応えて、生まれて初めてパスを出す。すべてをひとりで背負い込み、パスを出せなかった少年は、ここで初めて人を信頼することを知った。
もう一度言おう、パスを出すとは、相手に賭ける、そんな対話のあり方なのだ。

『AO』最終話に挿入されたアオとレントンのサッカーシーンが意味するのは、まさにこうした“対話”にほかならない。これまでの自分の歩みを語り終えた父は、息子の胸めがけてボールを放ち、去って行く。『交響詩篇』の象徴たるレントンが息子に託した、この世界からスカブをすべて消し去るという“パス”。彼のパスを受けたアオ=『AO』は、どうしたか?

もちろん、彼は彼なりの“シュート”を放つしかない。

3度の世界改変を経て、母・エウレカを取り戻したアオ。しかしスカブを消し去ろうとする両親に対して、彼は決然と「ノン!」を叩きつける。なぜなら、スカブを否定することは、彼が歩んできた人生を否定することだから。その結果、アオは未知の2027年へ――誰も彼のことを知らない世界へ旅立つことになるだろう。

しかし、そこに後悔はない。この不条理に満ちた世界を否定するのではなく、徹底的に肯定してやること。リアリズム(現実主義)の、その先へとシュートを蹴り込むこと。そこから、ぼくたちの“人生(試合)”は始まるのだし、そのようにしか始められないのだ。
脚本/會川昇、絵コンテ/村木靖・京田知己、演出/京田知己、作画監督/小森高博・可児里未・山崎秀樹、メカ作画監督/吉岡毅、キャラクター監修/織田広之・吉田健一


(注)
「Febri」第14号掲載の『エウレカセブンAO』後編全話解説に寄せた文章。とある事情から第一稿がNGになり、どうしよう……と、うんうん唸りながら本編を観直していたとき、「サッカーだ!」と突然天啓が降って湧いた。そこから小一時間くらいで書きあげたと思う。

『エウレカセブンAO』第23話「ザ・ファイナル・フロンティア」

かつて村上春樹の小説『風の歌を聴け』の登場人物は、ノートの真ん中に1本の線を引いた。左側にはこれまでに得たものを、そして右側には失ったものを書きつける。……だが、本当はこう問わなければいけなかったのだ。「線を引く」ことにいったい、どれほどの意味があるのか? と。

『エウレカセブンAO』の物語は、言ってみれば、延々と「線」を引き直し続ける物語だった。沖縄と日本、人間とシークレット、そしてシークレットとスカブ……。こちら側とあちら側、自分が属する側とそうではない“敵”。そしてこの第23話でアオが対峙することになるのは、“世界の敵”となったトゥルースだった。スカブとシークレットの間に生まれ、そのどちらにも所属することができなかったトゥルース。彼は、自分の存在を許さない世界に対し、世界そのものを壊そうと試みる。

だが本当に問われなければならなかったのは、「線を引く」ことそのものの正当性だったのだ。トゥルースとの空中戦の果てに、アオはこう叫ぶ。「すべて決めて、分けられるものなのか。消えてなくなってゼロにして、それでおしまいなのかよ!」。

そうして物語は、2度目のクォーツガンの輝きとともに巻き戻される。再び白紙に戻ったノートを前に、アオはもう一度、物語を語り直すことになる……。



そういえば、アニメは白い紙に「線を引く」ところから始まるのだった。とはいえ、アニメはただの「線」の集合体ではない。跳ね、舞い踊り、一瞬現れては、すぐに消える線の「残像」。その残像のなかにこそ、アオの、トゥルースの“生”は宿る。真実は線と線の間にあるのだ。
脚本/會川昇、絵コンテ/水島精二・長崎健司・村木靖・京田知己、演出/清水久敏、作画監督/藤田しげる・堀川耕一 メカ作画監督/水畑健二


(注)
「Febri」第14号掲載の『エウレカセブンAO』後編全話解説に寄せた文章。放映が校了まであとわずかというタイミングだったはずで、放映直後に急いで書きあげた。「ノートの真ん中に~」というのは、宇野常寛の評論『ゼロ年代の想像力』冒頭の議論を踏まえたもの。ただし、全くあさっての方向を向いた論旨になっているあたりが、どうにも……である。