2013年7月20日土曜日

『エウレカセブンAO』第23話「ザ・ファイナル・フロンティア」

かつて村上春樹の小説『風の歌を聴け』の登場人物は、ノートの真ん中に1本の線を引いた。左側にはこれまでに得たものを、そして右側には失ったものを書きつける。……だが、本当はこう問わなければいけなかったのだ。「線を引く」ことにいったい、どれほどの意味があるのか? と。

『エウレカセブンAO』の物語は、言ってみれば、延々と「線」を引き直し続ける物語だった。沖縄と日本、人間とシークレット、そしてシークレットとスカブ……。こちら側とあちら側、自分が属する側とそうではない“敵”。そしてこの第23話でアオが対峙することになるのは、“世界の敵”となったトゥルースだった。スカブとシークレットの間に生まれ、そのどちらにも所属することができなかったトゥルース。彼は、自分の存在を許さない世界に対し、世界そのものを壊そうと試みる。

だが本当に問われなければならなかったのは、「線を引く」ことそのものの正当性だったのだ。トゥルースとの空中戦の果てに、アオはこう叫ぶ。「すべて決めて、分けられるものなのか。消えてなくなってゼロにして、それでおしまいなのかよ!」。

そうして物語は、2度目のクォーツガンの輝きとともに巻き戻される。再び白紙に戻ったノートを前に、アオはもう一度、物語を語り直すことになる……。



そういえば、アニメは白い紙に「線を引く」ところから始まるのだった。とはいえ、アニメはただの「線」の集合体ではない。跳ね、舞い踊り、一瞬現れては、すぐに消える線の「残像」。その残像のなかにこそ、アオの、トゥルースの“生”は宿る。真実は線と線の間にあるのだ。
脚本/會川昇、絵コンテ/水島精二・長崎健司・村木靖・京田知己、演出/清水久敏、作画監督/藤田しげる・堀川耕一 メカ作画監督/水畑健二


(注)
「Febri」第14号掲載の『エウレカセブンAO』後編全話解説に寄せた文章。放映が校了まであとわずかというタイミングだったはずで、放映直後に急いで書きあげた。「ノートの真ん中に~」というのは、宇野常寛の評論『ゼロ年代の想像力』冒頭の議論を踏まえたもの。ただし、全くあさっての方向を向いた論旨になっているあたりが、どうにも……である。

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