2013年7月20日土曜日

石黒正数『外天楼』

石黒正数はデビュー直後から、ミステリやSFなど、いわゆる「ジャンルもの」に積極的に取り組んできた作家だ。これは彼がギャグ作家――すでに読者に了解済みの事柄を、ひとヒネリすることで笑いを生む――だったということも大きい(このことは例えば、初期短編においてたびたび、お約束の大定番「戦隊モノ」をパロディの対象として取り上げていることからもわかる)。また素人探偵の歩鳥がたびたび“日常の謎”に遭遇する『それでも町は廻っている』など、謎解きを含んだストーリーテリングを得意としてきた石黒だが、そんな彼が真正面からミステリに挑んだのが、この『外天楼』。掲載誌が、現代ミステリの牙城として知られる『メフィスト』だっただけに、この連載に賭ける石黒自身の意気込みが第1話から伝わってくる。

ミステリは、多くの“お約束(コード)”から成り立つ「ジャンル・フィクション」だ。読者は、謎を解く探偵や事件を、一種の“お約束”として受け止め、しかもその“お約束”はときに裏切られ、またときに予想だにしなかった飛躍を見せる。そこにこそ「ジャンル・フィクション」の醍醐味があるのだが、逆にいえばその進行の過程において――事件の発端とその発展、謎と解決といった“仕組み”が、読者にはなにより強く意識される。そして、その“仕組み”がドラマの進捗よりも優先されるがゆえに、往々にしてミステリの登場人物たちは、内面のない人物に見えてしまう。
ミステリ作品に対して「人間が書けていない」という批判が繰り広げられるのは、まさにこうした事態を指しているのにほかならない。

もちろん、こうした批判の裏には「登場人物に内面がある」=「文学的だ」とでもいうような杜撰かつ詰まらない構図が透けてみえるのだが、翻って石黒作品を読むと、彼ほど「人間が書けていない」作家もなかなかいない。もちろん、石黒作品のキャラクターたちにも喜怒哀楽はある。しかし何より重要なのは、そんな彼らがときに「物語を語る/騙る」ための装置=“仕組み”のように見えてくる、というところにある。

例えば『外天楼』の第4話「面倒な館」。「外天楼」と呼ばれる複雑怪奇なマンションの一室で、死体(名前は下井!)が発見される。事件を「密室殺人」に見立てようとする、新人刑事・桜場冴子。スラップスティックな味わいの強いこの一篇は、全体が「密室トリック」のパロディになっているのだが、なにより「密室殺人」の検証のため、上司の山上が強要されるアクロバティックなムチャ振りが、とにかくおかしい。別棟の屋根を滑り降り、狭い窓を通って、室内のベッドに着地させられる山上の姿は、まさに文字通り「人間離れ」しているのだ。

そして何より素晴らしいのは、こうしたスラップスティックなミステリのパロディ(ダイイング・メッセージを扱った第5話の、なんとおかしくも馬鹿馬鹿しいことか!)を突破した先に、あまりにも切なく、哀しい展開が待ち受けているところだ。

それまで一見、バラバラに見えていたエピソードが、ある殺人事件をきっかけに、1本の物語へと収斂していく。「連作短編」という形式を使った構成も見事なのだが、ある意味人工的でもある、そうした「ミステリ的な装置」を踏み越えて、読者は“犯人”が抱え込んでいた、ある“真相”へと誘われていく。作品の冒頭から予告されていた、犯人の“事情”。そしてそこから生まれた“愛”が導き出す、どうにもならない結論。そこはミステリという「ジャンル」を愛する石黒だからこそ、到達できた場所だろう。

本作は、真っ白な雪のなかに倒れこむ“真犯人”の姿で幕を閉じる。そこから静かに零れ落ちる、詩情。石黒正数という作家が、本質的にセンチメンタルな作家であることが、真っ白なページに消えかかる、小さな影のゆらめきから伝わってくる。


(注)
「Febri」第16号の、石黒正数インタビューに寄せた作品評のうちの1本。

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