2013年9月6日金曜日

バブルガムポップとしてのアニソン9曲+1

「恋愛サーキュレーション」を聴きながら、アニメ評論家の藤津亮太さんが選曲も担当したラジオ番組『カウントダウン☆アニメロボット』の解説( http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/65725688.html )を読んでいて、ふと「バブルガムポップとしてのアニソン」という概念を思いついた。
「バブルガムポップ」といっても、人によって思い浮かべるイメージはさまざまだけれど、

1)まずその作品(アニメ)がなければ存在しなかった曲であること。
2)職業作家が作・編曲を手がけていて、歌い手と分離していること。
3)劇中のキャラクターないし声優が歌っていること。

あたりが条件になるだろうか。 そんなわけで、You TubeとWikipediaをぶらぶらしながら、思いついた10曲を並べてみた(なんとなく00年代前半を中心に選んでみた)。

・Neko Mimi Mode(月詠 -MOON PHASE-/OP)'04
「恋愛サーキュレーション」がきっかけだったので、まずはこの曲。今聴いてもすごいと思う。

 ・少女Q(ぱにぽにだっしゅ!/OP)'05
新房監督作品ということで「ぱにぽにだっしゅ!」からこの曲。ほかのOP曲もいいんだけど、吉成作画が堪能できるので、これをチョイス。

・Harmonies*(くじびきアンバランス/ED)'06
劇中キャラが歌うエンディングというのに、個人的に弱い。野中藍の素晴らしさは言うまでもないが、小清水亜美もいい。

・虹色の宝物(まりんとメラン/ED)'00
同じく、キャラソンED。本編がすさまじく暗い作品なので、このエンディングの素晴らしさが一層際立つ。

・夢の中へ(彼氏彼女の事情/ED)'98
キャラソンEDでデュエット。という流れで思いだしたのがコレ。言わずと知れた、井上陽水の名曲をカバー。EDでこれがかかると、やっぱりグッと来る。

・アイスキャンディー(かみちゅ!/ED)'05
正確に言うと、キャラソンではないのだけれど、いいものはいい。

・Confidence(R.O.D -THE TV-/ED)'03
舛成監督作品ということでコレも。歌っているのが、本編後半に出てくる三浦理恵子(読子役)というあたりの、ひねり方もいい。このエンディングも、観るたびグッと来てしまう。

・風まかせ2(風まかせ 月影蘭/ED)'00
オープニングではなく、エンディングの方を。「R.O.D」と同じく、登場人物の声を当てている俳優さんが歌っているパターンで、安原麗子のスキャットがなんとも艶っぽい。 (本編の第1話は、ここから観ることができる → http://www.youtube.com/watch?v=mAXgvW90q4w  )。

・ヴィーナスと小さな神様(NieA_7/ED)'00
僕が最も偏愛するアニソンのひとつ。これを歌ってる山本麻里安が、本編でも声をやってると思いこんでたことに、今気づいた……。OPのSIONとのコントラストも素晴らしい。


(番外編)
・For フルーツバスケット(フルーツバスケット/OP)'01
「バブルガム」とは到底言えない(2と3の条件を満たしていない)けど、「フルーツバスケット」という作品と見事に共鳴した名曲だと思う。 

2013年9月4日水曜日

星団歴2988年、西暦2015年、昭和20年――悔恨の記号としての「年号」

「星団歴2988年」。
1989年に公開された映画『ファイブスター物語』は、黒い画面に白文字の、このテロップが現れるところから、その語りを起動する。ファンの方ならすでにご存知のとおり、この映画版は、長大な『ファイブスター物語』の冒頭部分、第1部と呼ばれているパートを映像化したものだ。「星団歴2988年」のテロップに続いて、Dr・バランシェによって作られた生体コンピュータ「ファティマ」の少女、ラキシスの目覚め、ラキシスの妹・クローソーとコーラス3世の出会い、ユーバー大公によるファティマのお披露目会といったエピソードが描かれ、そしてラキシスが運命の相手・アマテラスのもとへと嫁ぐ場面で、ひとまず映画は幕を下ろす。
アマテラスとラキシスの邂逅。それは、これから始まる長い戦乱の始まりを告げる出来事である。言い換えれば、2人の出会いこそが「歴史」の発動する場所でもある。そして『ファイブスター物語』は、その出会いを「星団歴2988年」という年号によって、長い長い時の流れに刻みつける。映画『ファイブスター物語』は、その語りを始めるにあたって、まずなにより「ある時間の一点」を指し示す。そこから始められなければならなかった。

もうひとつ、別のアプローチ。

「2015年12月20日、曇りのち雨。父が死んだ」。
少女のそんなモノローグから語り始めるのは、映画『ファイブスター物語』が公開される前年、1988年に発売開始されたOVA『トップをねらえ!』である。
モノローグの語り手は、主人公の少女タカヤ・ノリコ。黒枠に縁取られた父の遺影にオーバーラップして、彼女のこんなセリフが続く。「正確に言えば、12月19日に死んだ。父の乗っていた宇宙戦艦が遠い宇宙で、宇宙怪獣に襲われたのだ」。
ここで語られる「2015年」というのはもちろん、私たちが慣れ親しんでいる西暦2015年のことだ。そしてこの年号によってノリコたちの物語は、私たちの未来――決して近すぎはしないが、かといって遠すぎもしない、身近な近未来へと結び付けられる。それは『ファイブスター物語』が、架空の歴史を前提にしていたのとは逆だ。
それにしても『トップをねらえ!』の作中には、少しばかりギョッとするほど数多くの「年号」が跋扈している。ルクシオン号の完成を祝う新聞の紙面に見える2013年8月24日、ノリコが憧れの先輩である“お姉さま”ことカズミとともにパイロットに選出される2022年7月21日、あるいは、ノリコたち2人が10年越しの卒業式を迎える2032年7月31日、彼女たちを導いた鬼コーチ、オオタ・コウイチロウの墓に刻まれた2033年12月19日、そしてノリコの最後の戦いが始まる2048年5月22日……。
「何月何日」まで正確に記された、これらの時間。それらは目の前で語られていることが、私たち自身の未来に起こりうる出来事なのだと、そう伝えてくる。古今東西の諸作のパロディをふんだんに散りばめた、荒唐無稽なこのSFストーリー(そもそもタイトルからして『トップガン』と『エースをねらえ!』を掛け合わせたものだ)が、現実の延長線上にあるのだ、というサイン。そのようなものとして、これらの年号は機能している……ように見える。

しかしそれだけなら「SFにありがちな手法のひとつ」で片付けていいだろう。それよりも重要なのは、冒頭のノリコのモノローグに出てくる「正確に言えば」のひと言にある。
どうして彼女はわざわざそんなふうに、断らなければならなかったのか。それは「彼女が父の死を知った日」と「父が死んだ日」が、ぴったり1日ズレていたからにほかならない。主観的な出来事と客観的な事実が、決定的にズレてしまっていること。『トップをねらえ!』は、そんな「ズレ」をバネに物語をスイングさせ、飛躍させる。

すでに『トップをねらえ!』をご覧になっている方ならご存知の通り、この作品の主眼になっているのは、宇宙戦艦に乗り込んだノリコたちが「歳を取らない」ことにある。劇中で「ウラシマ効果」と呼ばれるこの現象は、SFの世界ではポピュラーな仕掛けのひとつだが、つまり、光の速さに近い速度で移動するほど、時間の進み方が遅くなるという現象を指す。ノリコの主観では1日の出来事であっても、地球で過ごす人々から見れば、何年、何十年もの時間が経過している。まわりの人々が歳を重ねているにもかかわらず、ひとりだけ若いまま、彼女は取り残される――違う時間を生きてしまうことの悲劇……。
そして最終話では、ノリコたちは宇宙怪獣との戦いの末、約1万2千年後の14292年7月6日(!)へと飛ばされる。遠い未来の地球では、すでに彼女たちが使っていた言語は失われ、彼女たちを出迎える「オカエリナサイ」の「イ」の字は、左右が逆転してしまっている。冒頭ではわずか1日だった主観と客観のズレが、数日になり、10年になり、そして物語の最終局面では「1万2千年」へと引き伸ばされる。いわば『トップをねらえ!』は、この「どんどんと引き伸ばされていくズレ」という運動をめぐって、綴られていく物語でもある。

そしてこのズレを明確に意識させるためにこそ、年号は「正確」に指し示されなければならなかった。2015年から始まった物語が、何度も繰り返しズレを振幅させるうちに、14292年へとたどり着くこと。人類を救い、その結果として、遠未来の地球へと帰還することになるノリコとカズミ――その決定的なズレの遠心力がファンタジーの方へ、1万2千年の「未来」へと彼女たちを放擲する。

そしてまた、もうひとつ別のアプローチ。

「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」。
そう映画の冒頭で述懐するのは、『火垂るの墓』の主人公・清太である。高畑勲が、野坂昭如の同名原作をもとに制作したこの映画は、『トップをねらえ!』の発売開始と同じ1988年に、宮崎駿監督の『となりのトトロ』との二本立てで公開された。
清太のセリフからもわかる通り、この作品の舞台となるのは第二次世界大戦末期の神戸。アメリカ軍の空襲を受け(劇中ではっきりと示されているわけではないが、史実と照らしあわせると、物語の始まりが1945年6月5日であることがわかる)、家を焼き出された14歳の少年・清太と、彼の4歳になる妹・節子の2人。彼らが、いかに大戦末期の日々を過ごし、そして最後には死にいたったのか。カメラはその約3ヵ月半を追いかけていく。

ここで使われている「年号」の機能は、極めて明瞭だろう。『トップをねらえ!』がそうだったように、「昭和20年」という年号は『火垂るの墓』を私たち自身の歴史へと結びつける。ただしそのベクトルは『トップをねらえ!』とは真逆だ。『トップをねらえ!』が未来へと――たった1日のズレが、まるで振り子の揺れのように増幅し、さらにその先のファンタジーへとノリコたちを送り出していくのとは逆に、『火垂るの墓』は過去のある一点、振り返ることしかできず、決して取り返しがつかない、そんな「決定的な時間」から物語を語り始める。そしてその「決して取り返しがつかない」ことはむしろ、『火垂るの墓』を『ファイブスター物語』の方に引き寄せていくように見える。

       *

『ファイブスター物語』の「取り返しのつかなさ」とはいったい何か。それはもちろん年表の存在だ。
『ファイブスター物語』が月刊アニメ誌「ニュータイプ」誌上での連載を始めるにあたって、これから語られるであろう(未来の)物語の「年表」を掲載したことは、この作品の最も大きな特徴のひとつでもある。そこでは人類という種がすでに「折り返し点に入った」と述べられ、また物語の鍵を握る巨大ロボット=モーターヘッドの誕生、アマテラスによる星団連合王国の樹立、そしてやがて訪れる宇宙の終わりなど、ここにはこれから物語が語ろうとする(もしかすると、すべてを語りきることはできないかもしれない)出来事が、あらかじめすべて書き込まれている。
私たちはこの「年表」を手に取り、そこに書き込まれたさまざまな(未知の)固有名詞を意味もわからないまま読み、触れる。それは、何千年、何万年というスケールで広がる長大な「時間」ではある。登場人物がどれだけ苦悩し葛藤したとしても、運命は決して変えることはできない……というような、ある圧倒的な感覚。
しかし、それは決して私たちの理解が届かないような、無限の広がりではない。むしろ『ファイブスター物語』は年表の存在によって、私たちにこれから語ろうとする物語の長さ、そこから生まれる厚み、ボリュームを、ある実体感を持って伝えようとする。

原作者の永野護は、第1巻のあとがきにこんなふうに記している。
この『何でもあり』の世界にあるたったひとつの巨大な足かせ、たったひとつの制限が『年表』なのです。何でもありで、何が出てきたとしても読者の方々は別に私がこれ以上描かないとしても結末は知っているのです。例外はありません。
ひとつの例外もなく、あらかじめ開示された物語。少なくとも『ファイブスター物語』のそれは、無限定の時空間に向かって、次々と送り、繰り出されるのではない。むしろその逆に、その物語は無限定の時空間に「年号」という名の時間を打ち込み、そしてその細部に向けて突進する。
そしてそこにおいて、個々の出来事――例えば、ラキシスとアマテラスの出会いは、一度きりの決定的な事件、一度起きてしまえば、もう二度と取り返しのつかないくさび、点、「年号」として、私たちの前に現れる。第1部では、アマテラスが何度も、ラキシスを自分のパートナーに迎えていいのだろうかと、逡巡する様子が描かれている。それもまた当然のことだろう。彼がラキシスを迎え入れてしまえば、自動的に物語は始まってしまう。そしてその物語は、一度語られ始めてしまえば、もう二度と「なかったこと」にはできない。

物語を語ることが、断念の、あるいは悔悟の形式であるような、そんな物語。

『火垂るの墓』の制作に際して、原作者の野坂は、高畑勲監督との対話のなかでこう語っている(『映画を作りながら考えたこと』所収の対談より)。
すぐそばに死があるわけだから、こちら側の生の充実感たるや、ものすごかった。それは単に、今度いつ食べられるか分からないから、いま食べてるものの味わいがよりひとしお深かったとか、そんなことじゃない。もっと根本的なことなんです。(中略)だから非常にきれいな風景の中で展開された、二人にとっては誠に充実した時間の流れが、いまからみると大悲劇であったという――。
この野坂の発言に対して、高畑監督は深く同意を示した上で、「(今回の映画で)そのあたりのことが伝えられるといいのですが」と応じている。
戦争末期を舞台にしていること、また主人公たちが結末で悲惨な死を迎えることもあって、『火垂るの墓』はいわゆる「反戦映画」と呼ばれることも多い。しかし(上の発言で野坂が明快に否定しているように)、この作品は決して「反戦映画」では――少なくとも「戦争に反対する」ために作られたものではない。というよりもむしろ、事態は逆なのだ。清太と節子は、その最後の日々を「充実した時間」として過ごす。しかもそれは「昭和20年」という緊迫した、一種異様な状況でしか成立しないような「充実」だった。彼らは、死を目前にしてそれまで以上に強く光を発する蛍のように――節子は「なんで蛍はすぐ死んでしまうのん?」と問う――彼らのぎりぎりの、極限で営まれた生は、それゆえに光り輝く。

では劇中で、彼らの「光り輝く生」はどのように描かれているのか。それはなによりもまず“暮らしの時間”として描かれる。食材集めから始まって、炊事、洗濯、食事、食器洗い……。ときには夫婦のようにも見え、またあるときには親子のようにも見える清太と節子、2人の生活を、カメラは細やかな日々の雑事とともに追いかけていく。
ここで私たちは高畑監督が、なににおいても“家政”を追いかけてきた映画作家だということを思い返してもいいだろう。東映動画(現・東映アニメーション)を退社後、彼が参加した『長くつ下のピッピ』――この企画自体は原作者・リンドグレーンの許諾を得ることができず、結局中止されてしまうのだが、その『長くつ下のピッピ』のコンセプトを引き継いで構想された『パンダコパンダ』と、続く『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の、世界名作劇場シリーズの3作など、彼は一貫して、劇中で“家政”を描いてきた。
洗濯物を干す『パンダコパンダ』のミミちゃん、『母をたずねて三千里』で描かれるジェノバの人々の暮らし、あるいはマリラに手伝いを言いつけられて皿洗いをするアン、そして極めつけは『アルプスの少女ハイジ』の、チーズを乗せたいわゆる「ハイジのパン」。彼のこうした日常芝居へのこだわりは、よくリアリティ志向の表れだと言われる。もちろんそうした細部のリアリティこそが、高畑のフィルムを支えているのは間違いない。しかし、それだけではなく、たぶん“家政”を通じて描かれる「時間」――そこで営まれた“暮らし”のヴォリューム、ある厚みを持って迫ってくる手触りこそが、高畑のフィルムを特徴的なものにしている。

そして『火垂るの墓』では、その“家政”の手触りが、これまでの諸作とは、また別の意味合いを持って描かれている。

映画の最終盤――節子の死のあと、隣家のレコードプレイヤーから流れる「はにゅうの宿(Home Sweet Home)」とともに、貯水地での暮らしが回想される場面。ブランコに乗り、防空壕のなかを掃除し、木の枝の箒でほこりを掃き出し、七輪の火をうちわで扇いで、そしてシーツを被ってはしゃぎまわる節子。それは、もう決して戻ることができないが、しかしかつて確かにあったはずの幸せの風景(Sweet Home)として、画面を凝視する私たちの前に現れる。
そこでは“暮らし”が、すでに遠く、手の届かない記憶として描き出される。言い換えれば、貯水池で営まれた2人の“家政”は、ファンタジーなのだ。「昭和20年」という紛れもない過去の「ある一点」に結び付けられることで、『火垂るの墓』は“家政”を、現実の(スクリーンを見つめる)私たちから切り離し、記憶のなかへ封じ込める。そういう種類のファンタジーを語ろうとしているように見える。

もうひとつ重要なこととして、上のように回想される『火垂るの墓』の最後の場面に、清太が登場しないことを指摘しておいてもよいだろう。
『火垂るの墓』は全編を通して、神戸の駅で昭和20年に死んだ――そしてその後、幽霊となった清太の視点から語られる物語という形式を採る。それゆえ映画は、基本的に清太の行動を追うことになるわけだが、最後の節子の“家政”の場面において、清太の姿は抹消されている。そしてそのことによって、この場面が清太の(彼岸の)視線によって捉えられていることが強く意識される。その視線の純度の高さこそが、この場面のファンタジーの度合いを高めているのだ。

       *

では、そろそろまとめに入ることにしよう。
『火垂るの墓』の、幽霊となった清太の視線は「昭和20年」という年号と結びつくことによって、そこで描かれる“暮らし”をファンタジーへと転化してみせた。『トップをねらえ!』では、繰り返し「正確に」指し示される年号が、ノリコたちを現実の時間から引き剥がし、彼女たち自身を1万2千年先の「未来」という、ファンタジーの方へと押し流していく。「年号」は彼女たちにとって、取り戻せない過去の象徴である。
そして『ファイブスター物語』では、「年表」があらかじめ開示されているという事実によって、今、私たちの前で起きているひとつひとつの出来事が、取り返しのつかない事件として意識される(アマテラスの脳裏に浮かぶ、かつて無垢なラキシスと遊んだ幸福な草原――Sweet Home!――の記憶……)。それは言い換えれば「年表」がまるで「幽霊」のように、登場人物たちのあれこれを見守っている……という事態にほかならない。
もちろん、個々の作品における語りへのアプローチはまったく異なり、また読者/観客がそこから何を受け取るかも、また異なる。実際、現実の年号(西暦)から語り始める『トップをねらえ!』『火垂るの墓』と、架空の年代記の形を取る『ファイブスター物語』では、そもそも語ろうとしている物語のリアリティが異なる。それもまた当然のことだろう。

にもかかわらず「年号」は、ある種の断念と悔恨と喪失の物語を語る契機、きっかけ、記号として機能する。

ある「点」を指し示しながら、その指し示された先をファンタジー(虚構)として切り離すこと。二度と取り返すことができず、決して手の届かない場所として、「点」から広がる厚み=物語を輝かせるということ……。そこには、私たちが虚構(フィクション)に、何を望んでいるのか、その正体がひそかに反映されているように思える。 


(注)「ユリイカ」2012年12月臨時増刊号「総特集/永野護」に寄せたテキスト。ブログ掲載にあたって、冒頭のブランキをめぐる一文をカットするなど、加筆修正している。『ファイブスター物語』(しかも映画版)にかこつけて、高畑勲監督について書きたいだけだったのが一目瞭然……。いや、発注を受けたときはそんなつもりはなかったはずなのですが。

沙村広明『ハルシオン・ランチ』

これまでも「少女漫画家無宿 涙のランチョン日記」(『おひっこし』所収)などで、ギャグ/コメディ漫画家としての側面を窺わせていた沙村が、本格的に取り組んだ長編ギャグ作品。物語は、人生に煮詰まった中年男・化野元(あだしのゲン!)が、河原で謎の美少女・ヒヨスと出会う場面から幕を上げる。川に釣糸を垂らしならが、自分がこれまでどれだけ苦労してきたか滔々と語る化野。しかしヒヨスは、そんな化野の苦労話を右から左へと聞き流すどころか、化野の唯一の財産であったリアカーを“食べ”てしまう。そう、彼女は未知の惑星から“食べ物”を探して地球を訪れた宇宙人だったのだ……。

とまあ、いかにも不穏な場面から幕を開ける本作だが、河原を舞台にしたギャグマンガといえば古谷実の傑作『僕といっしょ』を思い出さざるをえないし、河原で謎の美少女と出会うというシチュエーションだけ取り出してみれば、中村光の『荒川アンダー ザ ブリッジ』を連想させる。しかし『ハルシオン・ランチ』は、そんな先行する“河原系マンガ(!?)”の系列に収まってよしとする作品ではない。第2話では、化野を窮地に追い込んだ同僚・沖進次と彼の家に寄宿する2人目の宇宙人・トリアゾが登場し、沖と彼女は借金の原因となった女を追って青森に飛び立つことになる。一方、東京に残された化野とヒヨスは、八王子から南の島を経由して、なぜか立川のホームレス村にたどり着き、しかしその頃、沖たちは北の某国で捕らわれの身になる。書いていて自分で何を言っているのかよくわからなくなってきたが、つまり物語は決して直線的に突き進むのではなくジグザグに、まるでアミダクジで遊ぶがごとく行き当たりばったりに右往左往し、そして当初はまったく想像もできなかった場所――人類の再誕生という終幕へと読者を導いていく。

……と、このように整理してみると『ハルシオン・ランチ』は――現代を舞台にしたギャグと時代劇というまったく異なるジャンル、外見に関わらず、『無限の住人』によく似た構造の作品なのだ。もちろん笑いがベースにある『ハルシオン・ランチ』の方が『無限の住人』より、格段にテンポが早い。そして何より、ページの隅から隅までびっしりと描き込また大量のネタ。他作品のパロディはもちろんのこと(というか、そもそも本作は『荒川アンダー ザ ブリッジ』のパロディ/本歌取りとして始まったのではないかと思う)、時事ネタ、読者の予想を軽々と裏切るナンセンスな展開、雑誌掲載という形式を活かしたギミック(ヒロインの裸を隠す払込取扱票!)などなど、これでもかといわんばかりにアイデアが盛り込まれている。

というかこの大量に詰め込まれたネタが、飛躍に次ぐ飛躍を見せるストーリーラインへのツッコミとして機能する。そこが『ハルシオン・ランチ』の――そしてギャグ漫画家としての沙村の、チャームポイントだ。終局に向かってまっすぐ進むのではなく、横へ横へと物語が逸脱しながら、しかしその逸脱を大量の饒舌で埋め尽くしてしまうこと。そしてその饒舌が、横へとズレる逸脱=運動に対して「どないなっとんねん!」とツッコむ機能を果たすこと。優れた物語作家は、笑いの感性にもまた長けているものだが、言い換えれば『ハルシオン・ランチ』からツッコミを取り除いて、グッと物語の進行スピードを落とせば『無限の住人』や『ブラッドハーレーの馬車』が現れる。そんな気がしてならない。

インタビューによれば本作の連載は、ほとんど偶発事のようにスタートしたというが、もしまたチャンスがあれば、沙村にはこうしたナンセンスな喜劇をもう一度、描いてほしい。心からそう思う。

(注)「Febri」第17号掲載の、沙村広明インタビューに寄せた作品評のうちの1本。

沙村広明『無限の住人』

『無限の住人』を読むのは楽しい。しかしそれは単純に、シンプルに「面白い」というのとは違って、なんというか「快楽の漸進的横滑り」とでもいうべき面白さがある。
もともとこの「快楽の漸進的横滑り」というのは、ヌーヴォー・ロマンを代表する作家、アラン・ロブ=グリエが監督した映画のタイトルなのだけれど、それとは(あまり)関係なく、ただただ気持ちのよい絵と物語の連鎖が、積み重なるでも上昇するでもなく、まるで逃れられない力に引っ張られるように横へ横へと滑走する。目的地への到着は延々と遅らされ、迂回され、しかもそうこうしているうちに目的地が本当にそこだったのかさえもが怪しくなり、しかしそのもどかしさがまた心地よい。

『無限の住人』は、まずもっと“不死者”の物語である。主人公のひとり、万次は義憤に駆られ、上司である旗本・堀井重信を斬る。そうしてお尋ね者になった万次は彼を追う同心たちを斬ったことで「百人斬り」の汚名を帯び、さらに八百比丘尼によって血仙蟲を移され、不死の身体を得る。こうして始まった物語は、本来であれば、彼が“不死”から解放される場面で終焉を迎える……はずである。が、物語の最後まで併走した読者ならばおわかりのとおり、『無限の住人』はそのような終わり方をしていない。物語の目的地は微妙にズラされ、そして思いもがけない終幕を見る。

あるいは『無限の住人』は、単純な勧善懲悪とも違う倫理を描こうとする。そもそも万次は「悪党を千人斬る」ことで、血仙蟲から解放されるはずである。しかし“悪”はそれほど確固としたものだろうか? 本作の敵役にして逸刀流の当主・天津影久は、万次が知り合った娘・浅野凜の両親を惨殺した“極悪人”として、まずは姿を見せる。にもかかわらず物語が進むにつれて、彼の“悪”がいわば理想――武士の矜持!――を追い求めた結果だったことがわかる。しかもその“悪”が時の権力によって翻弄され、半ば自壊するように潰滅するにいたって、善悪の基準は完全に瓦解する。万次が求め、斬るべき“悪”は、(厳密には尸良を除いては)物語のどこにも存在できなくなってしまうのだ。

そしてまた『無限の住人』は“復讐”をめぐる物語でもある。先に触れたようにこの物語を駆動するのは、ヒロイン・浅野凜の影久への復讐心だ。しかも彼女は物語開始早々に影久を殺す機会を得るのだが(第3巻)、己の実力不足からそのチャンスを逃し、その後も再三再四に渡って、影久を殺し損ね続ける。そして第13巻、加賀から江戸へと帰る途上で繰り広げられる大殺陣。その末尾で、彼女は決定的な台詞を口にする。「逸刀流が最後にどこに到達するとしても待ってあげるわ」と。
ここに来て『無限の住人』は、「凜の(ある意味、単純明快な)復讐譚」から「影久の死すべき瞬間を待ち続ける凛の物語」へと変貌する。しかもこの時点で、物語はまだ折り返し地点にさえ到達していない。彼女が「待ち続ける」間、万次は幕府に捕らえられ、人体実験の対象となり、逸刀流や無骸流の剣士たちは、次々と血しぶきを上げながら散っていく。物語はほとんど、最後まで生き残ることができるのは誰なのか。命を賭けたサバイバルバトルの様相を呈し始める。

来るべき終焉に向かってじりじりと描き進められる絵と言葉。白い紙の上にペンで、鉛筆で描かれる、凄惨な殺陣と各自が抱える悲しい事情。描けば描くほどに増殖していくエピソード。それでもまだ「終わることができない」。そのときマンガを描くことは、ほとんど“戦い”のように見えてくる。そして『無限の住人』の読者は、そんな“マンガを描くという戦い”を、これ以上ない快楽とともにくぐり抜けるのだ。

(注)「Febri」第17号に掲載された「沙村広明インタビュー」に寄せた、作品評のうちの1本。インタビュー自体も面白い仕上がりになって、最近の書き仕事のなかでは満足している記事のひとつ。

『攻殻機動隊』原作の世界

 黄瀬和哉監督、冲方丁脚本・シリーズ構成による新シリーズ『攻殻機動隊ARISE』が、もうすぐ公開となる。押井守監督による『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』『イノセンス』の2部作、そして神山健治監督によるテレビシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』とその続編『2nd GIG』に続く、第3の映像化シリーズとなるわけだが、果たしてどのような仕上がりになるのか、期待で胸を膨らませている方も多いことだろう。この稿ではこの話題作の公開を前に、改めて士郎正宗による原作コミックの世界を振り返っておきたい。

 まず手初めに、コミック版『攻殻機動隊』のアウトラインを確認しておこう。本作は1989年から2001年にかけて、雑誌『ヤングマガジン』および『ヤングマガジン海賊版』誌上において、断続的に掲載・発表された。連載期間自体は約10年と長期に渡っているが、その内容は大きく3つに分けることができる。
 まずひとつ目が、1989~90年にかけて連載され、のちに加筆のうえ『攻殻機動隊』として単行本にまとめられたもの。続くふたつ目は、1997年に集中的に連載されたのち、単行本『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』としてまとめられたもの。そして3つ目が1991~96年にかけて断続的に発表された短編を集めた『攻殻機動隊1.5 HUMAN ERROR PROCESSER』である(ちなみにこの『攻殻1.5』は2003年、まずはブックレットつきCD-ROM版として発売され、その後の2008年に、アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』制作時に関連資料を追加した書籍版が発売されている。なかでも書籍化にあたって追加された資料部分――シナリオやプロットなどは、アニメ版制作時のスタッフ陣の思考の跡が窺える貴重な資料となっている)。

 まず注目すべきはやはり、最初の『攻殻機動隊』だろう。1980年代中盤に起こったサイバーパンク・ムーブメントの影響をたっぷりと感じさせつつも、独自のビジュアル表現へと昇華させた本作は、士郎正宗の代表作である。
 舞台となるのは2029年の近未来、高度に発達したコンピュータネットワークにより、国家というよりむしろ、企業集合体として存在する「日本」。主人公の草薙素子は、国家の枠では捉えきれない者たち――その多くは国際的な企業の幹部や権力者である――を強制的に排除する、いわば超法規的な存在として、まずは私たちの前に姿を現す。その後、公安の幹部であった荒巻と知り合った彼女は、仲間たちとともに総理直属の部隊「公安9課」を設立。さまざまな事件を追うなかで、超AI級とも噂される凄腕ハッカー・人形使いと遭遇し、ついにはコンピュータネットワークのなかに姿を消す……というのが、本作の物語の大枠である。
 もともと士郎は本作に(のちに押井守版の表題ともなる)『GHOST IN THE SHELL』というタイトルをつけようとしていたというが、その意味でまさに本作は、草薙素子という「義体=殻(SHELL)に囚われていた魂(GHOST)」が、身体を脱ぎ捨てるまでの話として理解することができる。またそうした原作のエッセンスを、ユニークな映像感覚の持ち主である監督・押井守が解釈・昇華した結果が、映画『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』だったといえるだろう。
 だが『攻殻機動隊』を一読して圧倒されるのは、そのようなストーリーを支えるために繰り出されるページいっぱいに詰め込まれたガジェット、情報量の多さにある。単行本冒頭に配置されたニューロチップの拡大図、欄外にぎっしりと書き込まれた注釈とお遊び、公安部に「ポリコ」、脳潜入に「ブレンダイビング」、群れに「パターンコントロール」とルビを振る言語感覚、あるいは「俺はM2007(マテバ)が好きなの!」というトグサのセリフにも顔を覗かせるミリタリーへの偏愛、そしてもちろん光学迷彩を初めとする刺激的ななビジョン/ビジュアルの提示……。いくつものレイヤーが同時に進行し、一気に読み手の脳に流れ込んでくる感覚こそが、まさに『攻殻機動隊』の真骨頂だ。

 そして重要なのは、そうした圧倒的かつトリヴィアル(些細)な情報の洪水が、先ほど簡単に触れた「魂と身体」のテーマへ収束する。そこにこそ『攻殻機動隊』の本領がある。そしてこの本領を最も端的に表しているのが、本作の最後に置かれた人形使いと素子の会話である。
 本作の終盤において、素子が追っていたハッカー「人形使い」の正体が、実は高度に発達したネットワークが生み出した「自意識(のようなもの?)」だったことが判明する。素子に近づき、融合を求める人形使い。彼(?)は、素子に語る。ネットワークはデータのコピーを繰り返すことで、無限に膨張を続けることができる。しかしそこには「ゆらぎ」がなく「個性や多様性が発生しない」。硬直したシステムを待っているのは死だ。だが、素子の意識と融合(一体化)すれば、システムに不確定性を導入し、「死」を回避できる――。
 面白いのは、この先だ。そんな人形使いの願いを承諾したあと、素子はこう質問を発する。「なぜ私を選んだの?」。その質問に対して、人形使いは「エン(縁)があったからだ」と応える。思わず素子はその答えに、「ネット内に仏教辞典でも持ってるの?」と突っ込むのだが、それはともかく、「魂と身体」の問題は、物語の最終盤に来てまた別の論理体系(宗教、あるいは神話の?)によって――言い換えれば「比喩」によって別の言葉へと置き換えられ、横に、斜めにズラされる。そんな感覚がある。
 そしてそのようなズレがただ闇雲に増殖し、ある意味、機械的に(?)繁茂する。そのような物語として、次作『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』が私たちの前に現れる。

『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』の概要をひと言で言い表すのは、恐ろしく困難だ。ひとまず舞台は、素子が公安9課を去り、人形使いと融合を果たした後、4年5ヶ月後。そこで彼女は、世界的大企業であるポセイドン・インダストリアル社の、幹部のひとりとして姿を見せる(彼女は自身の名前を「荒巻」と名乗っている)。彼女は、同社の豚クローン臓器培養施設が何者かによって襲撃された事件を追うことになるのだが、しかしその追跡の最中で、次々と義体を乗り換え、あるいは他人の身体を乗っ取りながら、捜査を進めていく。しかも物語の最終盤では、そうやって私たちの前に現れた素子(のように見える人物)が、実はネットワークから生まれた複数の素子(同位体と呼ばれる)のひとりであることが判明する。
『攻殻機動隊2』を特徴づけているのは、まさにこうした「何が本物なのかわからない状況」だ。例えば、冒頭近くで描かれる、素子と秘書・グレスの会話シーン。ネットワーク越しに対面する2人は、互いにネット用のアバターを介し、対話を交わす。アバターではキリッとした表情でネクタイを締めるグレスは、しかし実際には、寝ぼけ眼でトイレにしゃがみ、素子との対話を進める。しかもそうした「仮面」をつけた状態は、相対する素子においても同様だ。このように『攻殻機動隊2』では、本物の素子自身がどこにいるのか、読者にもすぐそれとはわからないように、無数の「デコイ(囮)」がばら撒かれている。
 あるイメージがすぐさま別のイメージに置き換えられ、しかも物理的な制限を軽々と越えながら、また別の物語へと接続・変換されていく。そのひたすらな増殖、連鎖……。加えて『攻殻機動隊2』が描いているのは、2035年3月6日という1日のうちの、わずか9時間ほどの物語である。エピローグで告げられるようにこの日、人類は珪素(シリコン)を主な成分とした新たな知的種族(?)の誕生に立ち会う。それは前作『攻殻機動隊』で予告されていた「殻(SHELL)」に「知性/魂(GHOST)」が宿る瞬間でもあるのだが、いわばこの物語は――コンピュータが自意識だけでなく、身体を持ったその日の、素子の行動を追った一編という構成になっている。
 極めて短時間の出来事を――それこそ物語の「本体」がどこにあるのかわからないほどに、無数のガジェットとデコイ(囮)で埋め尽くし、膨大な情報とともに読者の頭に流し込むこと。『攻殻機動隊2』を読むとは、そうした読書体験にほかならない。

 さて残された『攻殻機動隊1.5』だが、こちらは、素子が公安9課を去る前が舞台。原作者自身「9課の日常業務の話」と語るようにが、9課に持ち込まれた事件の解決におなじみの面々があたるという、極めてストレートなディテクティブストーリーとして仕上がっている。素子という存在を追いかけながら「魂と身体」について思弁を展開した本編とはまたひと味違う、「刑事モノ」としての魅力に満ちた一編だ。
 また周知の方も多いと思うが、神山健治監督の『STAND ALONE COMPLEX』は、この連作にインスパイアを受けている。押井版が原作の核をビジュアル化したものだとすれば、キャラクタードラマとしての側面にスポットを当てたのが神山版、ということができるだろうか。また『STAND ALONE COMPLEX』シリーズは衣谷遊によるコミカライズが進行しており、こちらもファンにとっては映像を追体験できる嬉しい一作だ。

 ひとまずコミック版『攻殻機動隊』は、この『攻殻1.5』の刊行をもって完結することが、士郎正宗自身によって宣言されている。だがその魅力は、読む人や時代によって、大きく表情を変える(その意味では、本稿もまたそうした読みのひとつでしかない)。詰め込まれた情報量によって読者を幻惑させながらも、新たな世界を垣間見せる。そんな作品だといえるだろう。

(注)『S-Fマガジン』2013年7月号「攻殻機動隊」特集に寄せた一文(ブログ掲載にあたって、改めて加筆・修正を加えている)。コミック版『攻殻機動隊』の概要を、初心者にもわかるように解説してほしい、という編集部からのオーダーを受けて、執筆したもの。