2013年9月4日水曜日

星団歴2988年、西暦2015年、昭和20年――悔恨の記号としての「年号」

「星団歴2988年」。
1989年に公開された映画『ファイブスター物語』は、黒い画面に白文字の、このテロップが現れるところから、その語りを起動する。ファンの方ならすでにご存知のとおり、この映画版は、長大な『ファイブスター物語』の冒頭部分、第1部と呼ばれているパートを映像化したものだ。「星団歴2988年」のテロップに続いて、Dr・バランシェによって作られた生体コンピュータ「ファティマ」の少女、ラキシスの目覚め、ラキシスの妹・クローソーとコーラス3世の出会い、ユーバー大公によるファティマのお披露目会といったエピソードが描かれ、そしてラキシスが運命の相手・アマテラスのもとへと嫁ぐ場面で、ひとまず映画は幕を下ろす。
アマテラスとラキシスの邂逅。それは、これから始まる長い戦乱の始まりを告げる出来事である。言い換えれば、2人の出会いこそが「歴史」の発動する場所でもある。そして『ファイブスター物語』は、その出会いを「星団歴2988年」という年号によって、長い長い時の流れに刻みつける。映画『ファイブスター物語』は、その語りを始めるにあたって、まずなにより「ある時間の一点」を指し示す。そこから始められなければならなかった。

もうひとつ、別のアプローチ。

「2015年12月20日、曇りのち雨。父が死んだ」。
少女のそんなモノローグから語り始めるのは、映画『ファイブスター物語』が公開される前年、1988年に発売開始されたOVA『トップをねらえ!』である。
モノローグの語り手は、主人公の少女タカヤ・ノリコ。黒枠に縁取られた父の遺影にオーバーラップして、彼女のこんなセリフが続く。「正確に言えば、12月19日に死んだ。父の乗っていた宇宙戦艦が遠い宇宙で、宇宙怪獣に襲われたのだ」。
ここで語られる「2015年」というのはもちろん、私たちが慣れ親しんでいる西暦2015年のことだ。そしてこの年号によってノリコたちの物語は、私たちの未来――決して近すぎはしないが、かといって遠すぎもしない、身近な近未来へと結び付けられる。それは『ファイブスター物語』が、架空の歴史を前提にしていたのとは逆だ。
それにしても『トップをねらえ!』の作中には、少しばかりギョッとするほど数多くの「年号」が跋扈している。ルクシオン号の完成を祝う新聞の紙面に見える2013年8月24日、ノリコが憧れの先輩である“お姉さま”ことカズミとともにパイロットに選出される2022年7月21日、あるいは、ノリコたち2人が10年越しの卒業式を迎える2032年7月31日、彼女たちを導いた鬼コーチ、オオタ・コウイチロウの墓に刻まれた2033年12月19日、そしてノリコの最後の戦いが始まる2048年5月22日……。
「何月何日」まで正確に記された、これらの時間。それらは目の前で語られていることが、私たち自身の未来に起こりうる出来事なのだと、そう伝えてくる。古今東西の諸作のパロディをふんだんに散りばめた、荒唐無稽なこのSFストーリー(そもそもタイトルからして『トップガン』と『エースをねらえ!』を掛け合わせたものだ)が、現実の延長線上にあるのだ、というサイン。そのようなものとして、これらの年号は機能している……ように見える。

しかしそれだけなら「SFにありがちな手法のひとつ」で片付けていいだろう。それよりも重要なのは、冒頭のノリコのモノローグに出てくる「正確に言えば」のひと言にある。
どうして彼女はわざわざそんなふうに、断らなければならなかったのか。それは「彼女が父の死を知った日」と「父が死んだ日」が、ぴったり1日ズレていたからにほかならない。主観的な出来事と客観的な事実が、決定的にズレてしまっていること。『トップをねらえ!』は、そんな「ズレ」をバネに物語をスイングさせ、飛躍させる。

すでに『トップをねらえ!』をご覧になっている方ならご存知の通り、この作品の主眼になっているのは、宇宙戦艦に乗り込んだノリコたちが「歳を取らない」ことにある。劇中で「ウラシマ効果」と呼ばれるこの現象は、SFの世界ではポピュラーな仕掛けのひとつだが、つまり、光の速さに近い速度で移動するほど、時間の進み方が遅くなるという現象を指す。ノリコの主観では1日の出来事であっても、地球で過ごす人々から見れば、何年、何十年もの時間が経過している。まわりの人々が歳を重ねているにもかかわらず、ひとりだけ若いまま、彼女は取り残される――違う時間を生きてしまうことの悲劇……。
そして最終話では、ノリコたちは宇宙怪獣との戦いの末、約1万2千年後の14292年7月6日(!)へと飛ばされる。遠い未来の地球では、すでに彼女たちが使っていた言語は失われ、彼女たちを出迎える「オカエリナサイ」の「イ」の字は、左右が逆転してしまっている。冒頭ではわずか1日だった主観と客観のズレが、数日になり、10年になり、そして物語の最終局面では「1万2千年」へと引き伸ばされる。いわば『トップをねらえ!』は、この「どんどんと引き伸ばされていくズレ」という運動をめぐって、綴られていく物語でもある。

そしてこのズレを明確に意識させるためにこそ、年号は「正確」に指し示されなければならなかった。2015年から始まった物語が、何度も繰り返しズレを振幅させるうちに、14292年へとたどり着くこと。人類を救い、その結果として、遠未来の地球へと帰還することになるノリコとカズミ――その決定的なズレの遠心力がファンタジーの方へ、1万2千年の「未来」へと彼女たちを放擲する。

そしてまた、もうひとつ別のアプローチ。

「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」。
そう映画の冒頭で述懐するのは、『火垂るの墓』の主人公・清太である。高畑勲が、野坂昭如の同名原作をもとに制作したこの映画は、『トップをねらえ!』の発売開始と同じ1988年に、宮崎駿監督の『となりのトトロ』との二本立てで公開された。
清太のセリフからもわかる通り、この作品の舞台となるのは第二次世界大戦末期の神戸。アメリカ軍の空襲を受け(劇中ではっきりと示されているわけではないが、史実と照らしあわせると、物語の始まりが1945年6月5日であることがわかる)、家を焼き出された14歳の少年・清太と、彼の4歳になる妹・節子の2人。彼らが、いかに大戦末期の日々を過ごし、そして最後には死にいたったのか。カメラはその約3ヵ月半を追いかけていく。

ここで使われている「年号」の機能は、極めて明瞭だろう。『トップをねらえ!』がそうだったように、「昭和20年」という年号は『火垂るの墓』を私たち自身の歴史へと結びつける。ただしそのベクトルは『トップをねらえ!』とは真逆だ。『トップをねらえ!』が未来へと――たった1日のズレが、まるで振り子の揺れのように増幅し、さらにその先のファンタジーへとノリコたちを送り出していくのとは逆に、『火垂るの墓』は過去のある一点、振り返ることしかできず、決して取り返しがつかない、そんな「決定的な時間」から物語を語り始める。そしてその「決して取り返しがつかない」ことはむしろ、『火垂るの墓』を『ファイブスター物語』の方に引き寄せていくように見える。

       *

『ファイブスター物語』の「取り返しのつかなさ」とはいったい何か。それはもちろん年表の存在だ。
『ファイブスター物語』が月刊アニメ誌「ニュータイプ」誌上での連載を始めるにあたって、これから語られるであろう(未来の)物語の「年表」を掲載したことは、この作品の最も大きな特徴のひとつでもある。そこでは人類という種がすでに「折り返し点に入った」と述べられ、また物語の鍵を握る巨大ロボット=モーターヘッドの誕生、アマテラスによる星団連合王国の樹立、そしてやがて訪れる宇宙の終わりなど、ここにはこれから物語が語ろうとする(もしかすると、すべてを語りきることはできないかもしれない)出来事が、あらかじめすべて書き込まれている。
私たちはこの「年表」を手に取り、そこに書き込まれたさまざまな(未知の)固有名詞を意味もわからないまま読み、触れる。それは、何千年、何万年というスケールで広がる長大な「時間」ではある。登場人物がどれだけ苦悩し葛藤したとしても、運命は決して変えることはできない……というような、ある圧倒的な感覚。
しかし、それは決して私たちの理解が届かないような、無限の広がりではない。むしろ『ファイブスター物語』は年表の存在によって、私たちにこれから語ろうとする物語の長さ、そこから生まれる厚み、ボリュームを、ある実体感を持って伝えようとする。

原作者の永野護は、第1巻のあとがきにこんなふうに記している。
この『何でもあり』の世界にあるたったひとつの巨大な足かせ、たったひとつの制限が『年表』なのです。何でもありで、何が出てきたとしても読者の方々は別に私がこれ以上描かないとしても結末は知っているのです。例外はありません。
ひとつの例外もなく、あらかじめ開示された物語。少なくとも『ファイブスター物語』のそれは、無限定の時空間に向かって、次々と送り、繰り出されるのではない。むしろその逆に、その物語は無限定の時空間に「年号」という名の時間を打ち込み、そしてその細部に向けて突進する。
そしてそこにおいて、個々の出来事――例えば、ラキシスとアマテラスの出会いは、一度きりの決定的な事件、一度起きてしまえば、もう二度と取り返しのつかないくさび、点、「年号」として、私たちの前に現れる。第1部では、アマテラスが何度も、ラキシスを自分のパートナーに迎えていいのだろうかと、逡巡する様子が描かれている。それもまた当然のことだろう。彼がラキシスを迎え入れてしまえば、自動的に物語は始まってしまう。そしてその物語は、一度語られ始めてしまえば、もう二度と「なかったこと」にはできない。

物語を語ることが、断念の、あるいは悔悟の形式であるような、そんな物語。

『火垂るの墓』の制作に際して、原作者の野坂は、高畑勲監督との対話のなかでこう語っている(『映画を作りながら考えたこと』所収の対談より)。
すぐそばに死があるわけだから、こちら側の生の充実感たるや、ものすごかった。それは単に、今度いつ食べられるか分からないから、いま食べてるものの味わいがよりひとしお深かったとか、そんなことじゃない。もっと根本的なことなんです。(中略)だから非常にきれいな風景の中で展開された、二人にとっては誠に充実した時間の流れが、いまからみると大悲劇であったという――。
この野坂の発言に対して、高畑監督は深く同意を示した上で、「(今回の映画で)そのあたりのことが伝えられるといいのですが」と応じている。
戦争末期を舞台にしていること、また主人公たちが結末で悲惨な死を迎えることもあって、『火垂るの墓』はいわゆる「反戦映画」と呼ばれることも多い。しかし(上の発言で野坂が明快に否定しているように)、この作品は決して「反戦映画」では――少なくとも「戦争に反対する」ために作られたものではない。というよりもむしろ、事態は逆なのだ。清太と節子は、その最後の日々を「充実した時間」として過ごす。しかもそれは「昭和20年」という緊迫した、一種異様な状況でしか成立しないような「充実」だった。彼らは、死を目前にしてそれまで以上に強く光を発する蛍のように――節子は「なんで蛍はすぐ死んでしまうのん?」と問う――彼らのぎりぎりの、極限で営まれた生は、それゆえに光り輝く。

では劇中で、彼らの「光り輝く生」はどのように描かれているのか。それはなによりもまず“暮らしの時間”として描かれる。食材集めから始まって、炊事、洗濯、食事、食器洗い……。ときには夫婦のようにも見え、またあるときには親子のようにも見える清太と節子、2人の生活を、カメラは細やかな日々の雑事とともに追いかけていく。
ここで私たちは高畑監督が、なににおいても“家政”を追いかけてきた映画作家だということを思い返してもいいだろう。東映動画(現・東映アニメーション)を退社後、彼が参加した『長くつ下のピッピ』――この企画自体は原作者・リンドグレーンの許諾を得ることができず、結局中止されてしまうのだが、その『長くつ下のピッピ』のコンセプトを引き継いで構想された『パンダコパンダ』と、続く『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』の、世界名作劇場シリーズの3作など、彼は一貫して、劇中で“家政”を描いてきた。
洗濯物を干す『パンダコパンダ』のミミちゃん、『母をたずねて三千里』で描かれるジェノバの人々の暮らし、あるいはマリラに手伝いを言いつけられて皿洗いをするアン、そして極めつけは『アルプスの少女ハイジ』の、チーズを乗せたいわゆる「ハイジのパン」。彼のこうした日常芝居へのこだわりは、よくリアリティ志向の表れだと言われる。もちろんそうした細部のリアリティこそが、高畑のフィルムを支えているのは間違いない。しかし、それだけではなく、たぶん“家政”を通じて描かれる「時間」――そこで営まれた“暮らし”のヴォリューム、ある厚みを持って迫ってくる手触りこそが、高畑のフィルムを特徴的なものにしている。

そして『火垂るの墓』では、その“家政”の手触りが、これまでの諸作とは、また別の意味合いを持って描かれている。

映画の最終盤――節子の死のあと、隣家のレコードプレイヤーから流れる「はにゅうの宿(Home Sweet Home)」とともに、貯水地での暮らしが回想される場面。ブランコに乗り、防空壕のなかを掃除し、木の枝の箒でほこりを掃き出し、七輪の火をうちわで扇いで、そしてシーツを被ってはしゃぎまわる節子。それは、もう決して戻ることができないが、しかしかつて確かにあったはずの幸せの風景(Sweet Home)として、画面を凝視する私たちの前に現れる。
そこでは“暮らし”が、すでに遠く、手の届かない記憶として描き出される。言い換えれば、貯水池で営まれた2人の“家政”は、ファンタジーなのだ。「昭和20年」という紛れもない過去の「ある一点」に結び付けられることで、『火垂るの墓』は“家政”を、現実の(スクリーンを見つめる)私たちから切り離し、記憶のなかへ封じ込める。そういう種類のファンタジーを語ろうとしているように見える。

もうひとつ重要なこととして、上のように回想される『火垂るの墓』の最後の場面に、清太が登場しないことを指摘しておいてもよいだろう。
『火垂るの墓』は全編を通して、神戸の駅で昭和20年に死んだ――そしてその後、幽霊となった清太の視点から語られる物語という形式を採る。それゆえ映画は、基本的に清太の行動を追うことになるわけだが、最後の節子の“家政”の場面において、清太の姿は抹消されている。そしてそのことによって、この場面が清太の(彼岸の)視線によって捉えられていることが強く意識される。その視線の純度の高さこそが、この場面のファンタジーの度合いを高めているのだ。

       *

では、そろそろまとめに入ることにしよう。
『火垂るの墓』の、幽霊となった清太の視線は「昭和20年」という年号と結びつくことによって、そこで描かれる“暮らし”をファンタジーへと転化してみせた。『トップをねらえ!』では、繰り返し「正確に」指し示される年号が、ノリコたちを現実の時間から引き剥がし、彼女たち自身を1万2千年先の「未来」という、ファンタジーの方へと押し流していく。「年号」は彼女たちにとって、取り戻せない過去の象徴である。
そして『ファイブスター物語』では、「年表」があらかじめ開示されているという事実によって、今、私たちの前で起きているひとつひとつの出来事が、取り返しのつかない事件として意識される(アマテラスの脳裏に浮かぶ、かつて無垢なラキシスと遊んだ幸福な草原――Sweet Home!――の記憶……)。それは言い換えれば「年表」がまるで「幽霊」のように、登場人物たちのあれこれを見守っている……という事態にほかならない。
もちろん、個々の作品における語りへのアプローチはまったく異なり、また読者/観客がそこから何を受け取るかも、また異なる。実際、現実の年号(西暦)から語り始める『トップをねらえ!』『火垂るの墓』と、架空の年代記の形を取る『ファイブスター物語』では、そもそも語ろうとしている物語のリアリティが異なる。それもまた当然のことだろう。

にもかかわらず「年号」は、ある種の断念と悔恨と喪失の物語を語る契機、きっかけ、記号として機能する。

ある「点」を指し示しながら、その指し示された先をファンタジー(虚構)として切り離すこと。二度と取り返すことができず、決して手の届かない場所として、「点」から広がる厚み=物語を輝かせるということ……。そこには、私たちが虚構(フィクション)に、何を望んでいるのか、その正体がひそかに反映されているように思える。 


(注)「ユリイカ」2012年12月臨時増刊号「総特集/永野護」に寄せたテキスト。ブログ掲載にあたって、冒頭のブランキをめぐる一文をカットするなど、加筆修正している。『ファイブスター物語』(しかも映画版)にかこつけて、高畑勲監督について書きたいだけだったのが一目瞭然……。いや、発注を受けたときはそんなつもりはなかったはずなのですが。

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