2013年9月4日水曜日

沙村広明『無限の住人』

『無限の住人』を読むのは楽しい。しかしそれは単純に、シンプルに「面白い」というのとは違って、なんというか「快楽の漸進的横滑り」とでもいうべき面白さがある。
もともとこの「快楽の漸進的横滑り」というのは、ヌーヴォー・ロマンを代表する作家、アラン・ロブ=グリエが監督した映画のタイトルなのだけれど、それとは(あまり)関係なく、ただただ気持ちのよい絵と物語の連鎖が、積み重なるでも上昇するでもなく、まるで逃れられない力に引っ張られるように横へ横へと滑走する。目的地への到着は延々と遅らされ、迂回され、しかもそうこうしているうちに目的地が本当にそこだったのかさえもが怪しくなり、しかしそのもどかしさがまた心地よい。

『無限の住人』は、まずもっと“不死者”の物語である。主人公のひとり、万次は義憤に駆られ、上司である旗本・堀井重信を斬る。そうしてお尋ね者になった万次は彼を追う同心たちを斬ったことで「百人斬り」の汚名を帯び、さらに八百比丘尼によって血仙蟲を移され、不死の身体を得る。こうして始まった物語は、本来であれば、彼が“不死”から解放される場面で終焉を迎える……はずである。が、物語の最後まで併走した読者ならばおわかりのとおり、『無限の住人』はそのような終わり方をしていない。物語の目的地は微妙にズラされ、そして思いもがけない終幕を見る。

あるいは『無限の住人』は、単純な勧善懲悪とも違う倫理を描こうとする。そもそも万次は「悪党を千人斬る」ことで、血仙蟲から解放されるはずである。しかし“悪”はそれほど確固としたものだろうか? 本作の敵役にして逸刀流の当主・天津影久は、万次が知り合った娘・浅野凜の両親を惨殺した“極悪人”として、まずは姿を見せる。にもかかわらず物語が進むにつれて、彼の“悪”がいわば理想――武士の矜持!――を追い求めた結果だったことがわかる。しかもその“悪”が時の権力によって翻弄され、半ば自壊するように潰滅するにいたって、善悪の基準は完全に瓦解する。万次が求め、斬るべき“悪”は、(厳密には尸良を除いては)物語のどこにも存在できなくなってしまうのだ。

そしてまた『無限の住人』は“復讐”をめぐる物語でもある。先に触れたようにこの物語を駆動するのは、ヒロイン・浅野凜の影久への復讐心だ。しかも彼女は物語開始早々に影久を殺す機会を得るのだが(第3巻)、己の実力不足からそのチャンスを逃し、その後も再三再四に渡って、影久を殺し損ね続ける。そして第13巻、加賀から江戸へと帰る途上で繰り広げられる大殺陣。その末尾で、彼女は決定的な台詞を口にする。「逸刀流が最後にどこに到達するとしても待ってあげるわ」と。
ここに来て『無限の住人』は、「凜の(ある意味、単純明快な)復讐譚」から「影久の死すべき瞬間を待ち続ける凛の物語」へと変貌する。しかもこの時点で、物語はまだ折り返し地点にさえ到達していない。彼女が「待ち続ける」間、万次は幕府に捕らえられ、人体実験の対象となり、逸刀流や無骸流の剣士たちは、次々と血しぶきを上げながら散っていく。物語はほとんど、最後まで生き残ることができるのは誰なのか。命を賭けたサバイバルバトルの様相を呈し始める。

来るべき終焉に向かってじりじりと描き進められる絵と言葉。白い紙の上にペンで、鉛筆で描かれる、凄惨な殺陣と各自が抱える悲しい事情。描けば描くほどに増殖していくエピソード。それでもまだ「終わることができない」。そのときマンガを描くことは、ほとんど“戦い”のように見えてくる。そして『無限の住人』の読者は、そんな“マンガを描くという戦い”を、これ以上ない快楽とともにくぐり抜けるのだ。

(注)「Febri」第17号に掲載された「沙村広明インタビュー」に寄せた、作品評のうちの1本。インタビュー自体も面白い仕上がりになって、最近の書き仕事のなかでは満足している記事のひとつ。

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