2012年5月12日土曜日

『坂道のアポロン』第5話「バードランドの子守唄」

『坂道のアポロン』を観るのは、「光」と「影」の愉楽に身を委ねる体験でもある。

この作品ではすべてのシーンで、キャラクターの影(とハイライト)にグラデーション処理がかけられている。それゆえに画面全体がソフトフォーカスがかかっているような、柔らかな印象になっているのだが、しかしより大切なのは、その「グラデーション処理」によって、各シーンごとに設定されている「光」の演出に、自然と意識が向くよう、仕掛けられていることにある。
例えば、カーテンの閉められたムカエレコードの店内は薄暗く、でもカーテンの向こう側には淡い太陽の光が射している……というように。あるいは、蛍光灯のついていない教室に差し込む、鮮やかな太陽光。そして、母親との再会の場面として誂えられた銀座のレストランの、温かな光。影と光の境目をぼかすことで、むしろ巧妙に配置された影と光の美しさに、思わずうっとりする。
特にこの第5話のように、「演奏シーン」というスペシャルカットのない、逆に言えばただただリッチなシーンがない回だと、その「光」と「影」の交差はより一層強く印象に残る。

そして、この第5話の基本をなしているのは、「2人とひとり」という構図の繰り返しにある。
薫と千太郎の妹の会話を聞く律子、そして薫と律子の会話を盗み聞きしてしまう千太郎。あるいは、レコードプレイヤーの前に座る千太郎と百合香に対して、後からそこに加わる淳一。あるいはまた、東京駅のホームで待っている薫の母と千太郎に対して、遅れてやってくる薫……。
繰り返し出てくる「2人とひとり」の構図が、数珠繋ぎのようにエピソードを繋いでいく。
脚本/加藤綾子、絵コンテ/宮繁之、演出/山岡実、作画監督/青木一紀。

『AKB0048』第2話「選ばれし光」

悪くない。

どこかで何かが決定的にずれ、失調しているような気がしてならないのだけれど、それでも「悪くない」と思わされてしまうのは、この『AKB0048』という作品が絶妙なところで「悲劇」と「メロドラマ」をバランスさせているからなのだろう。

「メロドラマ」とは、端的に言えば「人間たちのドラマ(劇)」である。メロドラマは登場人物たちの感情を燃料に、それが到達できる最長不倒距離を目指して、ただひたすらに、地平線の向こうへと(水平に)ドライヴしていく。
一方、「悲劇」とは「世界をめぐるドラマ (劇)」である。ある意味、それは世界の「原理」をめぐって交わされる怒りと抵抗の交差であり、また天から垂直に射す光、希望と歓喜の力をめぐる詩でもある。

『AKB0048』において、AKBは人知を越えた――言葉通りの「偶像」の位置にある。彼女たちは「目指すべき高み」に君臨する存在であり、また人々の欲望を「上」から照らす光として描かれる。

先日、大田俊寛『オウム真理教の精神史』を読んでいて、そこでは「神」の起源を、共同体を支える「虚構の人格」にあったのだ、と述べられていたのだが、その意味において、この作品におけるAKBはまさにフィクション(虚構)として、人々の「希望の光」なのである。
そして、この世界において「芸能」が禁止されているのは、故ないことではない。
「芸能」は単なる、余暇を埋める手遊びなどではなく、人々の生を祝福する、なくてはならない「光」であり、それゆえに、この世界を律している政府(あるいは国家)は、その充溢した力を恐れ、AKBを「テロリスト」と認定するのである。

そんなふうに考えると、AKBの襲名メンバーたちがズラリと並んだ姿は、どこか曼荼羅のようにも見えるてくるから、不思議だ。
また第2話で登場した園智恵理をAKBへと導いていく、小さな光の生物は、まるで「天使」のように見える。光を発し、少女たちを「芸能」へと導いていく存在。それは、AKBに人知を越えた力を授け、また周囲を明るく照らし出す。
……と、ここだけ抜き出せば、『AKB0048』はまるで、聖書にでも出てきそうな「悲劇」のように見える。がしかし、決してそんな「悲劇」へと物語は集約しない。例えば第1話では、少女たちの旅立ち――新たな場所へ向かうことの不安と期待が描かれ、また第2話のメインモチーフとなっているのは、主人公・本宮凪沙と智恵理の再会、そしてライバル関係が暗示される。
そこで描かれているのは、ほとんど、どこかで見たことのあるドラマのクリシェである。徹底的に人間のドラマ――そう、「メロドラマ」が『AKB0048』の主軸にはある。

このバランスを欠いたバランス。

脚本・シリーズ構成としてクレジットされている岡田麿里の、メロドラマの書き手としての能力の高さは疑うべくもない(『あの花』を観れば、誰もが納得するように)。しかし彼女のメロドラマの書き手としての力は、時としてあからさまな失調を見せることがある。例えば、『ブラック★ロックシューター』は、少女たちのメロドラマとして描かれながら、いざ「世界の原理」に語りの局面が差し掛かった途端に、物語の像を曖昧なものにしてしまう(実際は、それほど複雑な話ではないはずなのだが)。

そうやって考えると、たぶん『AKB0048』の「悲劇」を担い、またこの物語を垂直の光に照らし出しているのは、河森正治なんじゃないかという気がする。なにせ、世界を神々の闘争の場として描くときに、途轍もない力を発揮する人だ。『アクエリオンEVOL』もそうだけれど、彼と岡田という組み合わせは、この「悲劇とメロドラマのアンバランス」を召喚しているような、そんな感じがする。
脚本/岡田麿里、絵コンテ/河森正治・平池芳正、演出/水本葉月・高島大輔・筑紫大介、作画監督/小倉典子・今西 亨・杉村友和。

2012年5月3日木曜日

『AKB0048』第1話「消せない夢」

うわ、なにこの美術の情報量の高さ!
細やかな光の使い方も上手いけど、背景で「荒廃してるけど、人の生が根付いている未来社会」をしっかり描いてみせてる。すごい。

ただ、キャラがふわっふわなので、えらく浮いて見える。特に鍵になるのは頭と瞳のハートマークで、言い換えると、あのハートマークは「聖痕」として機能してる。彼女たちがアイドル(=AKB)となるべく運命付けられている存在だ、とデザインの時点で告げてる、っていう。

それは、彼女たちがこの「荒廃した未来社会」において「特別な存在であること」を端的に示してるわけなのだけれど、困ったことに第1話は、そんな彼女たちが「AKBのオーディションに合格するかどうかわからない」ことが、メインの主眼に据えられてる。
でも、こういうデザインを施されている時点で、オーディションに無事、合格することはほとんど確定しているわけで(ここで裏切られたら、そもそもあのデザインは何だったの? って話になる)、オーディションへの不安は作劇の前提として成立してなくね? って気がする。
ハリソン・フォードは死なない問題、ですね。

まあ、デザインと脚本は別々に進行してることが多いので、 こういう事態を招いてるのかなあという気もするんですが。

あ、あとほぼ同じ座組みで進行している『アクエリオンEVOL』も、似たような(リアリティのある美術で、近未来の社会を描く)志向性の作品なんだけど、美術の肌触りがなんか違う。それぞれ美術を担当しているスタジオが、『AKB0048』はスタジオイースター、『アクエリオン』が美峰という違いはあるんだけど、たぶんそこじゃなくて、美術が描こうとしている「対象」が違うから……だろうか?
『AKB0048』においては、「社会の暗さ(と、そこから飛び立とうとする少女たちの明るさ)」が、そのままコントラストの強い背景に反映している、というか。まあ、『AKB』の美術は、暗いというより「濁っている」という感じなのだけれど。
脚本/岡田麿里、絵コンテ/河森正治・平池芳正、演出/高島大輔、作画監督/山田裕子・長坂寛治。