2012年5月12日土曜日

『AKB0048』第2話「選ばれし光」

悪くない。

どこかで何かが決定的にずれ、失調しているような気がしてならないのだけれど、それでも「悪くない」と思わされてしまうのは、この『AKB0048』という作品が絶妙なところで「悲劇」と「メロドラマ」をバランスさせているからなのだろう。

「メロドラマ」とは、端的に言えば「人間たちのドラマ(劇)」である。メロドラマは登場人物たちの感情を燃料に、それが到達できる最長不倒距離を目指して、ただひたすらに、地平線の向こうへと(水平に)ドライヴしていく。
一方、「悲劇」とは「世界をめぐるドラマ (劇)」である。ある意味、それは世界の「原理」をめぐって交わされる怒りと抵抗の交差であり、また天から垂直に射す光、希望と歓喜の力をめぐる詩でもある。

『AKB0048』において、AKBは人知を越えた――言葉通りの「偶像」の位置にある。彼女たちは「目指すべき高み」に君臨する存在であり、また人々の欲望を「上」から照らす光として描かれる。

先日、大田俊寛『オウム真理教の精神史』を読んでいて、そこでは「神」の起源を、共同体を支える「虚構の人格」にあったのだ、と述べられていたのだが、その意味において、この作品におけるAKBはまさにフィクション(虚構)として、人々の「希望の光」なのである。
そして、この世界において「芸能」が禁止されているのは、故ないことではない。
「芸能」は単なる、余暇を埋める手遊びなどではなく、人々の生を祝福する、なくてはならない「光」であり、それゆえに、この世界を律している政府(あるいは国家)は、その充溢した力を恐れ、AKBを「テロリスト」と認定するのである。

そんなふうに考えると、AKBの襲名メンバーたちがズラリと並んだ姿は、どこか曼荼羅のようにも見えるてくるから、不思議だ。
また第2話で登場した園智恵理をAKBへと導いていく、小さな光の生物は、まるで「天使」のように見える。光を発し、少女たちを「芸能」へと導いていく存在。それは、AKBに人知を越えた力を授け、また周囲を明るく照らし出す。
……と、ここだけ抜き出せば、『AKB0048』はまるで、聖書にでも出てきそうな「悲劇」のように見える。がしかし、決してそんな「悲劇」へと物語は集約しない。例えば第1話では、少女たちの旅立ち――新たな場所へ向かうことの不安と期待が描かれ、また第2話のメインモチーフとなっているのは、主人公・本宮凪沙と智恵理の再会、そしてライバル関係が暗示される。
そこで描かれているのは、ほとんど、どこかで見たことのあるドラマのクリシェである。徹底的に人間のドラマ――そう、「メロドラマ」が『AKB0048』の主軸にはある。

このバランスを欠いたバランス。

脚本・シリーズ構成としてクレジットされている岡田麿里の、メロドラマの書き手としての能力の高さは疑うべくもない(『あの花』を観れば、誰もが納得するように)。しかし彼女のメロドラマの書き手としての力は、時としてあからさまな失調を見せることがある。例えば、『ブラック★ロックシューター』は、少女たちのメロドラマとして描かれながら、いざ「世界の原理」に語りの局面が差し掛かった途端に、物語の像を曖昧なものにしてしまう(実際は、それほど複雑な話ではないはずなのだが)。

そうやって考えると、たぶん『AKB0048』の「悲劇」を担い、またこの物語を垂直の光に照らし出しているのは、河森正治なんじゃないかという気がする。なにせ、世界を神々の闘争の場として描くときに、途轍もない力を発揮する人だ。『アクエリオンEVOL』もそうだけれど、彼と岡田という組み合わせは、この「悲劇とメロドラマのアンバランス」を召喚しているような、そんな感じがする。
脚本/岡田麿里、絵コンテ/河森正治・平池芳正、演出/水本葉月・高島大輔・筑紫大介、作画監督/小倉典子・今西 亨・杉村友和。

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