2015年10月4日日曜日

アンドレ・バザン『映画とは何か』

『映画とは何か』を読みながら考えていたのは、アンドレ・バザンはアニメーションを観ていたのだろうか? ということだった。

 もちろん『映画とは何か』には、今でも参照すべき議論も多い。「作家主義」が、なにもひとりの映画監督を捕まえて、くだくだと話を引っ張ることではなく、なにより脚本と演出を切り離して論じるための「手法(テクニック)」だったことを久しぶりに思い出したし、ブレッソンの脚色をめぐる議論にも、第二次大戦後の西部劇の達成を見ていく手つきにも、大いに刺激された。

 それにしてもしかし、バザンは「アニメーション」を観ていたのだろうか? と思う。

 ……アニメーション、と言ってももちろん、今、日本で深夜帯に流れているような作品群のことではなくて、バザンが映画評論家として活躍していた第二次大戦後から1950年代にかけて、MGMやワーナー、ディズニーが実写作品の「添え物」として制作していた――いわゆる「カートゥーン」のことだ。『映画とは何か』のなかで、カートゥーンにわずかにでも言及があるとすれば、アルベール・ラモリス作品について論じた「禁じられたモンタージュ」の冒頭近く。そこでバザンは「児童にふさわしいフィルムライブラリー」を作ろうとしても、「子ども向けに撮られた短編数編」か「アニメを含む、題材の面でも着想の面でもかなり幼稚な商業的映画何本か」程度しかない――と断じて、さらにこう続ける。

「とはいえ、それらの商業的作品は(中略)精神年齢が十四歳以下の観客にも理解できる作品であるというだけのことである。ご存知のとおり、アメリカ映画がこの潜在的レベルを超えることはそう多くはない。たとえばウォルト・ディズニーのアニメがそうである」

「ウォルト・ディズニー」と、具体的に固有名詞が出てきているくらいなのだから、彼がまったくアニメーションを観ていなかったはずはないし、「ディズニーのアニメ」そのものに対する彼の評価はさておくとしても、この文章を読むと、アメリカの喜劇映画――なかでもドタバタ喜劇の伝統に「カートゥーン」を接続する……という発想が、彼にはまったくなかったように見える。

 1951年に発表された文章「演劇と映画」のなかで、バザンは大衆演劇のコメディアンたちが、初期の商業映画に与えた影響をこんなふうに述べる。

「古典的な笑劇(ファルス)における登場人物やシチュエーションの設定、手法を思い返してみれば、ドタバタ喜劇映画こそが笑劇の突然にして驚くべき復活であることに気づかざるを得ない。十七世紀以来、衰退の一途をたどっていた笑劇は、極端に特殊化し、作り変えられて、サーカスやある種のミュージックホールでわずかに命脈を保っているにすぎなかった。だが、ドタバタ喜劇映画の――とくにハリウッドの――プロデューサーが俳優をスカウトしに行ったのは、まさにそこだったのである」

 バスター・キートンやハロルド・ロイド、ローレル&ハーディ、そしてチャーリー・チャップリンと、チャップリンが「師」と呼んだフランス喜劇界のスター、マックス・ランデ……。「1905年から1920年にかけて、笑劇はその歴史上でも例のないほどの輝きを放ったのだ」とバザンは言い、また別のところ(「ユロ氏と時間」)では、こうも書く。

「ハリウッドはトーキーの出現以降も、チャップリンを除外して考えてすら、喜劇映画の支配者であり続けた」。

 コメディアンたちによる喜劇映画の系譜――ということでいえば、スタンダップコメディアンとしてキャリアをスタートさせ、今ではハリウッドを代表するスターのひとりとなったアダム・サンドラーを筆頭に、『サタデー・ナイト・ライブ』のレギュラーメンバーだったウィル・フェレルや『ザ・デイリー・ショー』のスティーブ・カレルといった面々を思い出すし、そんなフェレルやカレルと『俺たちニュースキャスター』でタッグを組んだポール・ラッド主演の『アントマン』は、脚本クレジット――イギリスのコメディ番組出身のエドガー・ライト&ジョー・コーニッシュ、『SNL』出身のアダム・マッケイとポール・ラッド自身――を見ても、まさに「コメディアンによる喜劇映画」の伝統を、「スーパーヒーロー映画」に、真正面から接続した傑作なのだと思うし、あるいは品川ヒロシや劇団ひとりの映画が面白くて、なぜ『テルマエ・ロマエ』は笑えないのか? という問題に(勝手に)突き当たったりしてしまう。

 ……と、それはさておき。

 そんなふうにして、まさに1920~30年代にかけて絶頂期を迎えた「アメリカのドタバタ喜劇」は、しかし、バザンによれば「この十年から十五年のあいだにすっかり力を失ってしまった」。
 これは1953年に刊行された『西部劇、あるいは典型的なアメリカ映画』の序文として書かれた文章の引用だから、だいたい1940年代のことを指していると思われる。実際、トーキーの登場(1927年)によって、アクションの面白さを前面に押し出したスラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)から、軽妙な会話のやり取りを重視するソフィスティケイテッド・コメディへと、アメリカ映画の喜劇の主流は移っていった。

 とはいえもちろん同時期には、エルンスト・ルビッチやプレストン・スタージェスらが30年代に発表したスクリューボール・コメディの数々、あるいはハワード・ホークス(!)の諸作があったし、そして――これがこの文章の本題なのだが――1930年代の半ばに、ワーナー・スタジオのアニメーターとしてキャリアをスタートさせ、41年にMGMに移籍してから凄まじい勢いでカートゥーンの傑作を次々と手掛けたテックス・アヴェリー!

 彼は、1942年に『うそつき狼』でアカデミー賞短編アニメ部門にノミネートされるのだが、この年にはオーソン・ウェルズ監督の『偉大なるアンバーソン家の人々』も、作品賞にノミネート。またウェルズはその前年、『市民ケーン』でも監督賞にノミネートされているのだが、『映画とは何か』をお読みの方ならばご存知の通り、バザンの「映画史」では『市民ケーン』が非常に大きな位置を占めている。

 言い換えれば、1950年代序盤のバザンは『うそつき狼』より『市民ケーン』を選んだともいえるのだが、そこにはたぶん、『うそつき狼』が「題材の面でも着想の面でもかなり幼稚な」アニメーション映画だったということよりも、もう少し根深いものがあるように思う。

 バザンの映画批評において、それぞれの作品は、大きく「象徴主義」と「リアリズム」という2つの軸の緊張関係として取り上げられる。そしてその緊張関係は、技術的な発展――なかでも特にカメラレンズの進化と、それによってウェルズが達成したパンフォーカス(言うまでもなくその最初の成果が『市民ケーン』)による画面作り、そしてそこから生まれる「リアリズム」により重きが置かれるようになり、さらにはそれがイタリアン・ネオリアリズモの評価へと繋がっていくことになる。

 もちろん、だからといってそれまで映画を駆動していた「象徴主義」を切り捨てるようなことを、バザンはしないのだけれど(実際、1950年代の西部劇を論じる際、適度なリアリズムをメロドラマに導入した『シェーン』よりも、アンソニー・マンの『裸の拍車』を高く評価している)、しかしそれにしても「喜劇映画」の伝統に敏感に反応しながら、たぶんにその突然変異的な遺伝……のように見えるテックス・アヴェリーに触れないバザンは、やはり「アニメーションを観ていなかった」のではないか?

 いや、評論家がすべての作品に満遍なく触れることなど不可能なのだから、バザンがアヴェリーを無視したことを責めるのは、不当だろう。しかし「リアリズム」――スクリーンやモニターに映ったものが、まるで現実のように見えること――は、あくまでも「映画」の一部でしかない。
 そして個人的には、映画の「象徴主義」――省略し、誇張し、記号化することで生まれる、速度と軽さと乾きと荒唐無稽は、決して軽視していいものではない、と思う。

「私の作品はドライで情緒がないと言われる。又人物が喜劇的に誇張されていて、軽兆の感があり真実味が足りないと評される。又徒らにテンポのみ早くて、環境描写や雰囲気描写が皆無で、味も素気もないといわれる。これらの批判はすべてある意味では正しいと思われる。
 しかしもし、弁明することが許されるならば、私は意識的に情緒を捨て、真実を歪め、雰囲気を否定している――と言いたい」。

(増村保造「ある弁明――情緒と真実と雰囲気に背を向けて――」)