『無限の住人』を読むのは楽しい。しかしそれは単純に、シンプルに「面白い」というのとは違って、なんというか「快楽の漸進的横滑り」とでもいうべき面白さがある。
もともとこの「快楽の漸進的横滑り」というのは、ヌーヴォー・ロマンを代表する作家、アラン・ロブ=グリエが監督した映画のタイトルなのだけれど、それとは(あまり)関係なく、ただただ気持ちのよい絵と物語の連鎖が、積み重なるでも上昇するでもなく、まるで逃れられない力に引っ張られるように横へ横へと滑走する。目的地への到着は延々と遅らされ、迂回され、しかもそうこうしているうちに目的地が本当にそこだったのかさえもが怪しくなり、しかしそのもどかしさがまた心地よい。
『無限の住人』は、まずもっと“不死者”の物語である。主人公のひとり、万次は義憤に駆られ、上司である旗本・堀井重信を斬る。そうしてお尋ね者になった万次は彼を追う同心たちを斬ったことで「百人斬り」の汚名を帯び、さらに八百比丘尼によって血仙蟲を移され、不死の身体を得る。こうして始まった物語は、本来であれば、彼が“不死”から解放される場面で終焉を迎える……はずである。が、物語の最後まで併走した読者ならばおわかりのとおり、『無限の住人』はそのような終わり方をしていない。物語の目的地は微妙にズラされ、そして思いもがけない終幕を見る。
あるいは『無限の住人』は、単純な勧善懲悪とも違う倫理を描こうとする。そもそも万次は「悪党を千人斬る」ことで、血仙蟲から解放されるはずである。しかし“悪”はそれほど確固としたものだろうか? 本作の敵役にして逸刀流の当主・天津影久は、万次が知り合った娘・浅野凜の両親を惨殺した“極悪人”として、まずは姿を見せる。にもかかわらず物語が進むにつれて、彼の“悪”がいわば理想――武士の矜持!――を追い求めた結果だったことがわかる。しかもその“悪”が時の権力によって翻弄され、半ば自壊するように潰滅するにいたって、善悪の基準は完全に瓦解する。万次が求め、斬るべき“悪”は、(厳密には尸良を除いては)物語のどこにも存在できなくなってしまうのだ。
そしてまた『無限の住人』は“復讐”をめぐる物語でもある。先に触れたようにこの物語を駆動するのは、ヒロイン・浅野凜の影久への復讐心だ。しかも彼女は物語開始早々に影久を殺す機会を得るのだが(第3巻)、己の実力不足からそのチャンスを逃し、その後も再三再四に渡って、影久を殺し損ね続ける。そして第13巻、加賀から江戸へと帰る途上で繰り広げられる大殺陣。その末尾で、彼女は決定的な台詞を口にする。「逸刀流が最後にどこに到達するとしても待ってあげるわ」と。
ここに来て『無限の住人』は、「凜の(ある意味、単純明快な)復讐譚」から「影久の死すべき瞬間を待ち続ける凛の物語」へと変貌する。しかもこの時点で、物語はまだ折り返し地点にさえ到達していない。彼女が「待ち続ける」間、万次は幕府に捕らえられ、人体実験の対象となり、逸刀流や無骸流の剣士たちは、次々と血しぶきを上げながら散っていく。物語はほとんど、最後まで生き残ることができるのは誰なのか。命を賭けたサバイバルバトルの様相を呈し始める。
来るべき終焉に向かってじりじりと描き進められる絵と言葉。白い紙の上にペンで、鉛筆で描かれる、凄惨な殺陣と各自が抱える悲しい事情。描けば描くほどに増殖していくエピソード。それでもまだ「終わることができない」。そのときマンガを描くことは、ほとんど“戦い”のように見えてくる。そして『無限の住人』の読者は、そんな“マンガを描くという戦い”を、これ以上ない快楽とともにくぐり抜けるのだ。
(注)「Febri」第17号に掲載された「沙村広明インタビュー」に寄せた、作品評のうちの1本。インタビュー自体も面白い仕上がりになって、最近の書き仕事のなかでは満足している記事のひとつ。
2013年9月4日水曜日
『攻殻機動隊』原作の世界
黄瀬和哉監督、冲方丁脚本・シリーズ構成による新シリーズ『攻殻機動隊ARISE』が、もうすぐ公開となる。押井守監督による『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』『イノセンス』の2部作、そして神山健治監督によるテレビシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』とその続編『2nd GIG』に続く、第3の映像化シリーズとなるわけだが、果たしてどのような仕上がりになるのか、期待で胸を膨らませている方も多いことだろう。この稿ではこの話題作の公開を前に、改めて士郎正宗による原作コミックの世界を振り返っておきたい。
まず手初めに、コミック版『攻殻機動隊』のアウトラインを確認しておこう。本作は1989年から2001年にかけて、雑誌『ヤングマガジン』および『ヤングマガジン海賊版』誌上において、断続的に掲載・発表された。連載期間自体は約10年と長期に渡っているが、その内容は大きく3つに分けることができる。
まずひとつ目が、1989~90年にかけて連載され、のちに加筆のうえ『攻殻機動隊』として単行本にまとめられたもの。続くふたつ目は、1997年に集中的に連載されたのち、単行本『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』としてまとめられたもの。そして3つ目が1991~96年にかけて断続的に発表された短編を集めた『攻殻機動隊1.5 HUMAN ERROR PROCESSER』である(ちなみにこの『攻殻1.5』は2003年、まずはブックレットつきCD-ROM版として発売され、その後の2008年に、アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』制作時に関連資料を追加した書籍版が発売されている。なかでも書籍化にあたって追加された資料部分――シナリオやプロットなどは、アニメ版制作時のスタッフ陣の思考の跡が窺える貴重な資料となっている)。
まず注目すべきはやはり、最初の『攻殻機動隊』だろう。1980年代中盤に起こったサイバーパンク・ムーブメントの影響をたっぷりと感じさせつつも、独自のビジュアル表現へと昇華させた本作は、士郎正宗の代表作である。
舞台となるのは2029年の近未来、高度に発達したコンピュータネットワークにより、国家というよりむしろ、企業集合体として存在する「日本」。主人公の草薙素子は、国家の枠では捉えきれない者たち――その多くは国際的な企業の幹部や権力者である――を強制的に排除する、いわば超法規的な存在として、まずは私たちの前に姿を現す。その後、公安の幹部であった荒巻と知り合った彼女は、仲間たちとともに総理直属の部隊「公安9課」を設立。さまざまな事件を追うなかで、超AI級とも噂される凄腕ハッカー・人形使いと遭遇し、ついにはコンピュータネットワークのなかに姿を消す……というのが、本作の物語の大枠である。
もともと士郎は本作に(のちに押井守版の表題ともなる)『GHOST IN THE SHELL』というタイトルをつけようとしていたというが、その意味でまさに本作は、草薙素子という「義体=殻(SHELL)に囚われていた魂(GHOST)」が、身体を脱ぎ捨てるまでの話として理解することができる。またそうした原作のエッセンスを、ユニークな映像感覚の持ち主である監督・押井守が解釈・昇華した結果が、映画『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』だったといえるだろう。
だが『攻殻機動隊』を一読して圧倒されるのは、そのようなストーリーを支えるために繰り出されるページいっぱいに詰め込まれたガジェット、情報量の多さにある。単行本冒頭に配置されたニューロチップの拡大図、欄外にぎっしりと書き込まれた注釈とお遊び、公安部に「ポリコ」、脳潜入に「ブレンダイビング」、群れに「パターンコントロール」とルビを振る言語感覚、あるいは「俺はM2007(マテバ)が好きなの!」というトグサのセリフにも顔を覗かせるミリタリーへの偏愛、そしてもちろん光学迷彩を初めとする刺激的ななビジョン/ビジュアルの提示……。いくつものレイヤーが同時に進行し、一気に読み手の脳に流れ込んでくる感覚こそが、まさに『攻殻機動隊』の真骨頂だ。
そして重要なのは、そうした圧倒的かつトリヴィアル(些細)な情報の洪水が、先ほど簡単に触れた「魂と身体」のテーマへ収束する。そこにこそ『攻殻機動隊』の本領がある。そしてこの本領を最も端的に表しているのが、本作の最後に置かれた人形使いと素子の会話である。
本作の終盤において、素子が追っていたハッカー「人形使い」の正体が、実は高度に発達したネットワークが生み出した「自意識(のようなもの?)」だったことが判明する。素子に近づき、融合を求める人形使い。彼(?)は、素子に語る。ネットワークはデータのコピーを繰り返すことで、無限に膨張を続けることができる。しかしそこには「ゆらぎ」がなく「個性や多様性が発生しない」。硬直したシステムを待っているのは死だ。だが、素子の意識と融合(一体化)すれば、システムに不確定性を導入し、「死」を回避できる――。
面白いのは、この先だ。そんな人形使いの願いを承諾したあと、素子はこう質問を発する。「なぜ私を選んだの?」。その質問に対して、人形使いは「エン(縁)があったからだ」と応える。思わず素子はその答えに、「ネット内に仏教辞典でも持ってるの?」と突っ込むのだが、それはともかく、「魂と身体」の問題は、物語の最終盤に来てまた別の論理体系(宗教、あるいは神話の?)によって――言い換えれば「比喩」によって別の言葉へと置き換えられ、横に、斜めにズラされる。そんな感覚がある。
そしてそのようなズレがただ闇雲に増殖し、ある意味、機械的に(?)繁茂する。そのような物語として、次作『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』が私たちの前に現れる。
『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』の概要をひと言で言い表すのは、恐ろしく困難だ。ひとまず舞台は、素子が公安9課を去り、人形使いと融合を果たした後、4年5ヶ月後。そこで彼女は、世界的大企業であるポセイドン・インダストリアル社の、幹部のひとりとして姿を見せる(彼女は自身の名前を「荒巻」と名乗っている)。彼女は、同社の豚クローン臓器培養施設が何者かによって襲撃された事件を追うことになるのだが、しかしその追跡の最中で、次々と義体を乗り換え、あるいは他人の身体を乗っ取りながら、捜査を進めていく。しかも物語の最終盤では、そうやって私たちの前に現れた素子(のように見える人物)が、実はネットワークから生まれた複数の素子(同位体と呼ばれる)のひとりであることが判明する。
『攻殻機動隊2』を特徴づけているのは、まさにこうした「何が本物なのかわからない状況」だ。例えば、冒頭近くで描かれる、素子と秘書・グレスの会話シーン。ネットワーク越しに対面する2人は、互いにネット用のアバターを介し、対話を交わす。アバターではキリッとした表情でネクタイを締めるグレスは、しかし実際には、寝ぼけ眼でトイレにしゃがみ、素子との対話を進める。しかもそうした「仮面」をつけた状態は、相対する素子においても同様だ。このように『攻殻機動隊2』では、本物の素子自身がどこにいるのか、読者にもすぐそれとはわからないように、無数の「デコイ(囮)」がばら撒かれている。
あるイメージがすぐさま別のイメージに置き換えられ、しかも物理的な制限を軽々と越えながら、また別の物語へと接続・変換されていく。そのひたすらな増殖、連鎖……。加えて『攻殻機動隊2』が描いているのは、2035年3月6日という1日のうちの、わずか9時間ほどの物語である。エピローグで告げられるようにこの日、人類は珪素(シリコン)を主な成分とした新たな知的種族(?)の誕生に立ち会う。それは前作『攻殻機動隊』で予告されていた「殻(SHELL)」に「知性/魂(GHOST)」が宿る瞬間でもあるのだが、いわばこの物語は――コンピュータが自意識だけでなく、身体を持ったその日の、素子の行動を追った一編という構成になっている。
極めて短時間の出来事を――それこそ物語の「本体」がどこにあるのかわからないほどに、無数のガジェットとデコイ(囮)で埋め尽くし、膨大な情報とともに読者の頭に流し込むこと。『攻殻機動隊2』を読むとは、そうした読書体験にほかならない。
さて残された『攻殻機動隊1.5』だが、こちらは、素子が公安9課を去る前が舞台。原作者自身「9課の日常業務の話」と語るようにが、9課に持ち込まれた事件の解決におなじみの面々があたるという、極めてストレートなディテクティブストーリーとして仕上がっている。素子という存在を追いかけながら「魂と身体」について思弁を展開した本編とはまたひと味違う、「刑事モノ」としての魅力に満ちた一編だ。
また周知の方も多いと思うが、神山健治監督の『STAND ALONE COMPLEX』は、この連作にインスパイアを受けている。押井版が原作の核をビジュアル化したものだとすれば、キャラクタードラマとしての側面にスポットを当てたのが神山版、ということができるだろうか。また『STAND ALONE COMPLEX』シリーズは衣谷遊によるコミカライズが進行しており、こちらもファンにとっては映像を追体験できる嬉しい一作だ。
ひとまずコミック版『攻殻機動隊』は、この『攻殻1.5』の刊行をもって完結することが、士郎正宗自身によって宣言されている。だがその魅力は、読む人や時代によって、大きく表情を変える(その意味では、本稿もまたそうした読みのひとつでしかない)。詰め込まれた情報量によって読者を幻惑させながらも、新たな世界を垣間見せる。そんな作品だといえるだろう。
(注)『S-Fマガジン』2013年7月号「攻殻機動隊」特集に寄せた一文(ブログ掲載にあたって、改めて加筆・修正を加えている)。コミック版『攻殻機動隊』の概要を、初心者にもわかるように解説してほしい、という編集部からのオーダーを受けて、執筆したもの。
まず手初めに、コミック版『攻殻機動隊』のアウトラインを確認しておこう。本作は1989年から2001年にかけて、雑誌『ヤングマガジン』および『ヤングマガジン海賊版』誌上において、断続的に掲載・発表された。連載期間自体は約10年と長期に渡っているが、その内容は大きく3つに分けることができる。
まずひとつ目が、1989~90年にかけて連載され、のちに加筆のうえ『攻殻機動隊』として単行本にまとめられたもの。続くふたつ目は、1997年に集中的に連載されたのち、単行本『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』としてまとめられたもの。そして3つ目が1991~96年にかけて断続的に発表された短編を集めた『攻殻機動隊1.5 HUMAN ERROR PROCESSER』である(ちなみにこの『攻殻1.5』は2003年、まずはブックレットつきCD-ROM版として発売され、その後の2008年に、アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』制作時に関連資料を追加した書籍版が発売されている。なかでも書籍化にあたって追加された資料部分――シナリオやプロットなどは、アニメ版制作時のスタッフ陣の思考の跡が窺える貴重な資料となっている)。
まず注目すべきはやはり、最初の『攻殻機動隊』だろう。1980年代中盤に起こったサイバーパンク・ムーブメントの影響をたっぷりと感じさせつつも、独自のビジュアル表現へと昇華させた本作は、士郎正宗の代表作である。
舞台となるのは2029年の近未来、高度に発達したコンピュータネットワークにより、国家というよりむしろ、企業集合体として存在する「日本」。主人公の草薙素子は、国家の枠では捉えきれない者たち――その多くは国際的な企業の幹部や権力者である――を強制的に排除する、いわば超法規的な存在として、まずは私たちの前に姿を現す。その後、公安の幹部であった荒巻と知り合った彼女は、仲間たちとともに総理直属の部隊「公安9課」を設立。さまざまな事件を追うなかで、超AI級とも噂される凄腕ハッカー・人形使いと遭遇し、ついにはコンピュータネットワークのなかに姿を消す……というのが、本作の物語の大枠である。
もともと士郎は本作に(のちに押井守版の表題ともなる)『GHOST IN THE SHELL』というタイトルをつけようとしていたというが、その意味でまさに本作は、草薙素子という「義体=殻(SHELL)に囚われていた魂(GHOST)」が、身体を脱ぎ捨てるまでの話として理解することができる。またそうした原作のエッセンスを、ユニークな映像感覚の持ち主である監督・押井守が解釈・昇華した結果が、映画『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』だったといえるだろう。
だが『攻殻機動隊』を一読して圧倒されるのは、そのようなストーリーを支えるために繰り出されるページいっぱいに詰め込まれたガジェット、情報量の多さにある。単行本冒頭に配置されたニューロチップの拡大図、欄外にぎっしりと書き込まれた注釈とお遊び、公安部に「ポリコ」、脳潜入に「ブレンダイビング」、群れに「パターンコントロール」とルビを振る言語感覚、あるいは「俺はM2007(マテバ)が好きなの!」というトグサのセリフにも顔を覗かせるミリタリーへの偏愛、そしてもちろん光学迷彩を初めとする刺激的ななビジョン/ビジュアルの提示……。いくつものレイヤーが同時に進行し、一気に読み手の脳に流れ込んでくる感覚こそが、まさに『攻殻機動隊』の真骨頂だ。
そして重要なのは、そうした圧倒的かつトリヴィアル(些細)な情報の洪水が、先ほど簡単に触れた「魂と身体」のテーマへ収束する。そこにこそ『攻殻機動隊』の本領がある。そしてこの本領を最も端的に表しているのが、本作の最後に置かれた人形使いと素子の会話である。
本作の終盤において、素子が追っていたハッカー「人形使い」の正体が、実は高度に発達したネットワークが生み出した「自意識(のようなもの?)」だったことが判明する。素子に近づき、融合を求める人形使い。彼(?)は、素子に語る。ネットワークはデータのコピーを繰り返すことで、無限に膨張を続けることができる。しかしそこには「ゆらぎ」がなく「個性や多様性が発生しない」。硬直したシステムを待っているのは死だ。だが、素子の意識と融合(一体化)すれば、システムに不確定性を導入し、「死」を回避できる――。
面白いのは、この先だ。そんな人形使いの願いを承諾したあと、素子はこう質問を発する。「なぜ私を選んだの?」。その質問に対して、人形使いは「エン(縁)があったからだ」と応える。思わず素子はその答えに、「ネット内に仏教辞典でも持ってるの?」と突っ込むのだが、それはともかく、「魂と身体」の問題は、物語の最終盤に来てまた別の論理体系(宗教、あるいは神話の?)によって――言い換えれば「比喩」によって別の言葉へと置き換えられ、横に、斜めにズラされる。そんな感覚がある。
そしてそのようなズレがただ闇雲に増殖し、ある意味、機械的に(?)繁茂する。そのような物語として、次作『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』が私たちの前に現れる。
『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』の概要をひと言で言い表すのは、恐ろしく困難だ。ひとまず舞台は、素子が公安9課を去り、人形使いと融合を果たした後、4年5ヶ月後。そこで彼女は、世界的大企業であるポセイドン・インダストリアル社の、幹部のひとりとして姿を見せる(彼女は自身の名前を「荒巻」と名乗っている)。彼女は、同社の豚クローン臓器培養施設が何者かによって襲撃された事件を追うことになるのだが、しかしその追跡の最中で、次々と義体を乗り換え、あるいは他人の身体を乗っ取りながら、捜査を進めていく。しかも物語の最終盤では、そうやって私たちの前に現れた素子(のように見える人物)が、実はネットワークから生まれた複数の素子(同位体と呼ばれる)のひとりであることが判明する。
『攻殻機動隊2』を特徴づけているのは、まさにこうした「何が本物なのかわからない状況」だ。例えば、冒頭近くで描かれる、素子と秘書・グレスの会話シーン。ネットワーク越しに対面する2人は、互いにネット用のアバターを介し、対話を交わす。アバターではキリッとした表情でネクタイを締めるグレスは、しかし実際には、寝ぼけ眼でトイレにしゃがみ、素子との対話を進める。しかもそうした「仮面」をつけた状態は、相対する素子においても同様だ。このように『攻殻機動隊2』では、本物の素子自身がどこにいるのか、読者にもすぐそれとはわからないように、無数の「デコイ(囮)」がばら撒かれている。
あるイメージがすぐさま別のイメージに置き換えられ、しかも物理的な制限を軽々と越えながら、また別の物語へと接続・変換されていく。そのひたすらな増殖、連鎖……。加えて『攻殻機動隊2』が描いているのは、2035年3月6日という1日のうちの、わずか9時間ほどの物語である。エピローグで告げられるようにこの日、人類は珪素(シリコン)を主な成分とした新たな知的種族(?)の誕生に立ち会う。それは前作『攻殻機動隊』で予告されていた「殻(SHELL)」に「知性/魂(GHOST)」が宿る瞬間でもあるのだが、いわばこの物語は――コンピュータが自意識だけでなく、身体を持ったその日の、素子の行動を追った一編という構成になっている。
極めて短時間の出来事を――それこそ物語の「本体」がどこにあるのかわからないほどに、無数のガジェットとデコイ(囮)で埋め尽くし、膨大な情報とともに読者の頭に流し込むこと。『攻殻機動隊2』を読むとは、そうした読書体験にほかならない。
さて残された『攻殻機動隊1.5』だが、こちらは、素子が公安9課を去る前が舞台。原作者自身「9課の日常業務の話」と語るようにが、9課に持ち込まれた事件の解決におなじみの面々があたるという、極めてストレートなディテクティブストーリーとして仕上がっている。素子という存在を追いかけながら「魂と身体」について思弁を展開した本編とはまたひと味違う、「刑事モノ」としての魅力に満ちた一編だ。
また周知の方も多いと思うが、神山健治監督の『STAND ALONE COMPLEX』は、この連作にインスパイアを受けている。押井版が原作の核をビジュアル化したものだとすれば、キャラクタードラマとしての側面にスポットを当てたのが神山版、ということができるだろうか。また『STAND ALONE COMPLEX』シリーズは衣谷遊によるコミカライズが進行しており、こちらもファンにとっては映像を追体験できる嬉しい一作だ。
ひとまずコミック版『攻殻機動隊』は、この『攻殻1.5』の刊行をもって完結することが、士郎正宗自身によって宣言されている。だがその魅力は、読む人や時代によって、大きく表情を変える(その意味では、本稿もまたそうした読みのひとつでしかない)。詰め込まれた情報量によって読者を幻惑させながらも、新たな世界を垣間見せる。そんな作品だといえるだろう。
(注)『S-Fマガジン』2013年7月号「攻殻機動隊」特集に寄せた一文(ブログ掲載にあたって、改めて加筆・修正を加えている)。コミック版『攻殻機動隊』の概要を、初心者にもわかるように解説してほしい、という編集部からのオーダーを受けて、執筆したもの。
2013年7月20日土曜日
石黒正数『木曜日のフルット』
人気連載マンガの長期化が指摘されるようになって久しい。
単行本の巻数が2ケタに達する作品も多く、またなかには50巻を越えて、いまだ結末が見えない作品も多い(特に週刊少年誌はその傾向が強い)。その裏には、固定ファンのついた作品を終了したくないという作者・出版社側の事情もあるのだろうし、またいつまでも作品世界に浸っていたいという、読者側からの欲求もあるだろう。いずれにしろ“連載の長期化”には「延々と語り/語られ続けること」に対する、妥協と開き直りが――言い換えれば「終わらせること」への怯えが透けて見える。
「週刊少年チャンピオン」に連載されている『木曜日のフルット』は毎回、2ページ(見開き)――わずか10~13コマで1本のエピソードが完結するというスタイルを採っている。主人公は、どこか『ネムルバカ』の登場人物を連想させる無職の女性・鯨井サナ。彼女と彼女が偶然拾った、への字口のネコ・フルットとの日常(?)が綴られていく。
あるエピソードでは、鯨井と彼女を慕う整体師・頼子、そして鯨井がたまにアシスタントのバイトをしているマンガ家・白井先生らとの賑やかなドタバタ騒ぎが繰り広げられ(しっかり者のように見えながら、意外と抜けている頼子のキャラクターもいい)、そうかと思えば、別のエピソードではフルットと近所のノラ猫たちとの、どこか呑気なサバイバル生活が描かれる。ときに人間の、またあるときにはネコの視点から(そしてまた別のときには、幽霊や河童の視点から!)綴られるエピソード群。
それらは、見事なまでに1話ごとに「完結」している。
ページをめくるたびに、新たな物語が始まり、そして「終わる」。ここには「だらしなく、いつまでも語り続けていたい」という欲求は微塵も存在しない。出てくる登場人物がすさまじいダメ人間だったり(働かずに生きていたいと考える鯨井先輩!)、あるいは今日の夕飯をめぐってフルットたちが醜い争いを繰り広げる――といった些細な内容にも関わらず、いやむしろ些細な内容であるがゆえに、この潔い「終わり方」には本当に驚かされる。
まるで一筆書きのように鮮やかで、凛とした佇まい。だからこそ『木曜日のフルット』を読むのは――特に単行本を一冊通して読むことは、ひどく疲れる体験でもある。だが、その疲れは清々しく心地よい。
今のマンガシーンにおいて、小田扉や石川雅之といった「物語巧者」と肩を並べる、数少ない作家のひとり・石黒正数。そのエッセンスを凝縮したのが、この『フルット』だと思う。
(注)
「Febri」第16号に掲載された「石黒正数インタビュー」に寄せた、作品評のうちの1本。
単行本の巻数が2ケタに達する作品も多く、またなかには50巻を越えて、いまだ結末が見えない作品も多い(特に週刊少年誌はその傾向が強い)。その裏には、固定ファンのついた作品を終了したくないという作者・出版社側の事情もあるのだろうし、またいつまでも作品世界に浸っていたいという、読者側からの欲求もあるだろう。いずれにしろ“連載の長期化”には「延々と語り/語られ続けること」に対する、妥協と開き直りが――言い換えれば「終わらせること」への怯えが透けて見える。
「週刊少年チャンピオン」に連載されている『木曜日のフルット』は毎回、2ページ(見開き)――わずか10~13コマで1本のエピソードが完結するというスタイルを採っている。主人公は、どこか『ネムルバカ』の登場人物を連想させる無職の女性・鯨井サナ。彼女と彼女が偶然拾った、への字口のネコ・フルットとの日常(?)が綴られていく。
あるエピソードでは、鯨井と彼女を慕う整体師・頼子、そして鯨井がたまにアシスタントのバイトをしているマンガ家・白井先生らとの賑やかなドタバタ騒ぎが繰り広げられ(しっかり者のように見えながら、意外と抜けている頼子のキャラクターもいい)、そうかと思えば、別のエピソードではフルットと近所のノラ猫たちとの、どこか呑気なサバイバル生活が描かれる。ときに人間の、またあるときにはネコの視点から(そしてまた別のときには、幽霊や河童の視点から!)綴られるエピソード群。
それらは、見事なまでに1話ごとに「完結」している。
ページをめくるたびに、新たな物語が始まり、そして「終わる」。ここには「だらしなく、いつまでも語り続けていたい」という欲求は微塵も存在しない。出てくる登場人物がすさまじいダメ人間だったり(働かずに生きていたいと考える鯨井先輩!)、あるいは今日の夕飯をめぐってフルットたちが醜い争いを繰り広げる――といった些細な内容にも関わらず、いやむしろ些細な内容であるがゆえに、この潔い「終わり方」には本当に驚かされる。
まるで一筆書きのように鮮やかで、凛とした佇まい。だからこそ『木曜日のフルット』を読むのは――特に単行本を一冊通して読むことは、ひどく疲れる体験でもある。だが、その疲れは清々しく心地よい。
今のマンガシーンにおいて、小田扉や石川雅之といった「物語巧者」と肩を並べる、数少ない作家のひとり・石黒正数。そのエッセンスを凝縮したのが、この『フルット』だと思う。
(注)
「Febri」第16号に掲載された「石黒正数インタビュー」に寄せた、作品評のうちの1本。
石黒正数『外天楼』
石黒正数はデビュー直後から、ミステリやSFなど、いわゆる「ジャンルもの」に積極的に取り組んできた作家だ。これは彼がギャグ作家――すでに読者に了解済みの事柄を、ひとヒネリすることで笑いを生む――だったということも大きい(このことは例えば、初期短編においてたびたび、お約束の大定番「戦隊モノ」をパロディの対象として取り上げていることからもわかる)。また素人探偵の歩鳥がたびたび“日常の謎”に遭遇する『それでも町は廻っている』など、謎解きを含んだストーリーテリングを得意としてきた石黒だが、そんな彼が真正面からミステリに挑んだのが、この『外天楼』。掲載誌が、現代ミステリの牙城として知られる『メフィスト』だっただけに、この連載に賭ける石黒自身の意気込みが第1話から伝わってくる。
ミステリは、多くの“お約束(コード)”から成り立つ「ジャンル・フィクション」だ。読者は、謎を解く探偵や事件を、一種の“お約束”として受け止め、しかもその“お約束”はときに裏切られ、またときに予想だにしなかった飛躍を見せる。そこにこそ「ジャンル・フィクション」の醍醐味があるのだが、逆にいえばその進行の過程において――事件の発端とその発展、謎と解決といった“仕組み”が、読者にはなにより強く意識される。そして、その“仕組み”がドラマの進捗よりも優先されるがゆえに、往々にしてミステリの登場人物たちは、内面のない人物に見えてしまう。
ミステリ作品に対して「人間が書けていない」という批判が繰り広げられるのは、まさにこうした事態を指しているのにほかならない。
もちろん、こうした批判の裏には「登場人物に内面がある」=「文学的だ」とでもいうような杜撰かつ詰まらない構図が透けてみえるのだが、翻って石黒作品を読むと、彼ほど「人間が書けていない」作家もなかなかいない。もちろん、石黒作品のキャラクターたちにも喜怒哀楽はある。しかし何より重要なのは、そんな彼らがときに「物語を語る/騙る」ための装置=“仕組み”のように見えてくる、というところにある。
例えば『外天楼』の第4話「面倒な館」。「外天楼」と呼ばれる複雑怪奇なマンションの一室で、死体(名前は下井!)が発見される。事件を「密室殺人」に見立てようとする、新人刑事・桜場冴子。スラップスティックな味わいの強いこの一篇は、全体が「密室トリック」のパロディになっているのだが、なにより「密室殺人」の検証のため、上司の山上が強要されるアクロバティックなムチャ振りが、とにかくおかしい。別棟の屋根を滑り降り、狭い窓を通って、室内のベッドに着地させられる山上の姿は、まさに文字通り「人間離れ」しているのだ。
そして何より素晴らしいのは、こうしたスラップスティックなミステリのパロディ(ダイイング・メッセージを扱った第5話の、なんとおかしくも馬鹿馬鹿しいことか!)を突破した先に、あまりにも切なく、哀しい展開が待ち受けているところだ。
それまで一見、バラバラに見えていたエピソードが、ある殺人事件をきっかけに、1本の物語へと収斂していく。「連作短編」という形式を使った構成も見事なのだが、ある意味人工的でもある、そうした「ミステリ的な装置」を踏み越えて、読者は“犯人”が抱え込んでいた、ある“真相”へと誘われていく。作品の冒頭から予告されていた、犯人の“事情”。そしてそこから生まれた“愛”が導き出す、どうにもならない結論。そこはミステリという「ジャンル」を愛する石黒だからこそ、到達できた場所だろう。
本作は、真っ白な雪のなかに倒れこむ“真犯人”の姿で幕を閉じる。そこから静かに零れ落ちる、詩情。石黒正数という作家が、本質的にセンチメンタルな作家であることが、真っ白なページに消えかかる、小さな影のゆらめきから伝わってくる。
(注)
「Febri」第16号の、石黒正数インタビューに寄せた作品評のうちの1本。
ミステリは、多くの“お約束(コード)”から成り立つ「ジャンル・フィクション」だ。読者は、謎を解く探偵や事件を、一種の“お約束”として受け止め、しかもその“お約束”はときに裏切られ、またときに予想だにしなかった飛躍を見せる。そこにこそ「ジャンル・フィクション」の醍醐味があるのだが、逆にいえばその進行の過程において――事件の発端とその発展、謎と解決といった“仕組み”が、読者にはなにより強く意識される。そして、その“仕組み”がドラマの進捗よりも優先されるがゆえに、往々にしてミステリの登場人物たちは、内面のない人物に見えてしまう。
ミステリ作品に対して「人間が書けていない」という批判が繰り広げられるのは、まさにこうした事態を指しているのにほかならない。
もちろん、こうした批判の裏には「登場人物に内面がある」=「文学的だ」とでもいうような杜撰かつ詰まらない構図が透けてみえるのだが、翻って石黒作品を読むと、彼ほど「人間が書けていない」作家もなかなかいない。もちろん、石黒作品のキャラクターたちにも喜怒哀楽はある。しかし何より重要なのは、そんな彼らがときに「物語を語る/騙る」ための装置=“仕組み”のように見えてくる、というところにある。
例えば『外天楼』の第4話「面倒な館」。「外天楼」と呼ばれる複雑怪奇なマンションの一室で、死体(名前は下井!)が発見される。事件を「密室殺人」に見立てようとする、新人刑事・桜場冴子。スラップスティックな味わいの強いこの一篇は、全体が「密室トリック」のパロディになっているのだが、なにより「密室殺人」の検証のため、上司の山上が強要されるアクロバティックなムチャ振りが、とにかくおかしい。別棟の屋根を滑り降り、狭い窓を通って、室内のベッドに着地させられる山上の姿は、まさに文字通り「人間離れ」しているのだ。
そして何より素晴らしいのは、こうしたスラップスティックなミステリのパロディ(ダイイング・メッセージを扱った第5話の、なんとおかしくも馬鹿馬鹿しいことか!)を突破した先に、あまりにも切なく、哀しい展開が待ち受けているところだ。
それまで一見、バラバラに見えていたエピソードが、ある殺人事件をきっかけに、1本の物語へと収斂していく。「連作短編」という形式を使った構成も見事なのだが、ある意味人工的でもある、そうした「ミステリ的な装置」を踏み越えて、読者は“犯人”が抱え込んでいた、ある“真相”へと誘われていく。作品の冒頭から予告されていた、犯人の“事情”。そしてそこから生まれた“愛”が導き出す、どうにもならない結論。そこはミステリという「ジャンル」を愛する石黒だからこそ、到達できた場所だろう。
本作は、真っ白な雪のなかに倒れこむ“真犯人”の姿で幕を閉じる。そこから静かに零れ落ちる、詩情。石黒正数という作家が、本質的にセンチメンタルな作家であることが、真っ白なページに消えかかる、小さな影のゆらめきから伝わってくる。
(注)
「Febri」第16号の、石黒正数インタビューに寄せた作品評のうちの1本。
『エウレカセブンAO』第24話「夏への扉」
『エウレカセブン』において、サッカーは特別な位置を占めている。ボールを蹴って、パスを出すこと。それはすなわち、言葉を投げかけ、託し、相手に賭けることにほかならない。
『交響詩篇』の第39話、フットサルの試合に途中出場したレントンは、エウレカの呼びかけに応えて、生まれて初めてパスを出す。すべてをひとりで背負い込み、パスを出せなかった少年は、ここで初めて人を信頼することを知った。
もう一度言おう、パスを出すとは、相手に賭ける、そんな対話のあり方なのだ。
『AO』最終話に挿入されたアオとレントンのサッカーシーンが意味するのは、まさにこうした“対話”にほかならない。これまでの自分の歩みを語り終えた父は、息子の胸めがけてボールを放ち、去って行く。『交響詩篇』の象徴たるレントンが息子に託した、この世界からスカブをすべて消し去るという“パス”。彼のパスを受けたアオ=『AO』は、どうしたか?
もちろん、彼は彼なりの“シュート”を放つしかない。
3度の世界改変を経て、母・エウレカを取り戻したアオ。しかしスカブを消し去ろうとする両親に対して、彼は決然と「ノン!」を叩きつける。なぜなら、スカブを否定することは、彼が歩んできた人生を否定することだから。その結果、アオは未知の2027年へ――誰も彼のことを知らない世界へ旅立つことになるだろう。
しかし、そこに後悔はない。この不条理に満ちた世界を否定するのではなく、徹底的に肯定してやること。リアリズム(現実主義)の、その先へとシュートを蹴り込むこと。そこから、ぼくたちの“人生(試合)”は始まるのだし、そのようにしか始められないのだ。
脚本/會川昇、絵コンテ/村木靖・京田知己、演出/京田知己、作画監督/小森高博・可児里未・山崎秀樹、メカ作画監督/吉岡毅、キャラクター監修/織田広之・吉田健一
(注)
「Febri」第14号掲載の『エウレカセブンAO』後編全話解説に寄せた文章。とある事情から第一稿がNGになり、どうしよう……と、うんうん唸りながら本編を観直していたとき、「サッカーだ!」と突然天啓が降って湧いた。そこから小一時間くらいで書きあげたと思う。
『交響詩篇』の第39話、フットサルの試合に途中出場したレントンは、エウレカの呼びかけに応えて、生まれて初めてパスを出す。すべてをひとりで背負い込み、パスを出せなかった少年は、ここで初めて人を信頼することを知った。
もう一度言おう、パスを出すとは、相手に賭ける、そんな対話のあり方なのだ。
『AO』最終話に挿入されたアオとレントンのサッカーシーンが意味するのは、まさにこうした“対話”にほかならない。これまでの自分の歩みを語り終えた父は、息子の胸めがけてボールを放ち、去って行く。『交響詩篇』の象徴たるレントンが息子に託した、この世界からスカブをすべて消し去るという“パス”。彼のパスを受けたアオ=『AO』は、どうしたか?
もちろん、彼は彼なりの“シュート”を放つしかない。
3度の世界改変を経て、母・エウレカを取り戻したアオ。しかしスカブを消し去ろうとする両親に対して、彼は決然と「ノン!」を叩きつける。なぜなら、スカブを否定することは、彼が歩んできた人生を否定することだから。その結果、アオは未知の2027年へ――誰も彼のことを知らない世界へ旅立つことになるだろう。
しかし、そこに後悔はない。この不条理に満ちた世界を否定するのではなく、徹底的に肯定してやること。リアリズム(現実主義)の、その先へとシュートを蹴り込むこと。そこから、ぼくたちの“人生(試合)”は始まるのだし、そのようにしか始められないのだ。
脚本/會川昇、絵コンテ/村木靖・京田知己、演出/京田知己、作画監督/小森高博・可児里未・山崎秀樹、メカ作画監督/吉岡毅、キャラクター監修/織田広之・吉田健一
(注)
「Febri」第14号掲載の『エウレカセブンAO』後編全話解説に寄せた文章。とある事情から第一稿がNGになり、どうしよう……と、うんうん唸りながら本編を観直していたとき、「サッカーだ!」と突然天啓が降って湧いた。そこから小一時間くらいで書きあげたと思う。
『エウレカセブンAO』第23話「ザ・ファイナル・フロンティア」
かつて村上春樹の小説『風の歌を聴け』の登場人物は、ノートの真ん中に1本の線を引いた。左側にはこれまでに得たものを、そして右側には失ったものを書きつける。……だが、本当はこう問わなければいけなかったのだ。「線を引く」ことにいったい、どれほどの意味があるのか? と。
『エウレカセブンAO』の物語は、言ってみれば、延々と「線」を引き直し続ける物語だった。沖縄と日本、人間とシークレット、そしてシークレットとスカブ……。こちら側とあちら側、自分が属する側とそうではない“敵”。そしてこの第23話でアオが対峙することになるのは、“世界の敵”となったトゥルースだった。スカブとシークレットの間に生まれ、そのどちらにも所属することができなかったトゥルース。彼は、自分の存在を許さない世界に対し、世界そのものを壊そうと試みる。
だが本当に問われなければならなかったのは、「線を引く」ことそのものの正当性だったのだ。トゥルースとの空中戦の果てに、アオはこう叫ぶ。「すべて決めて、分けられるものなのか。消えてなくなってゼロにして、それでおしまいなのかよ!」。
そうして物語は、2度目のクォーツガンの輝きとともに巻き戻される。再び白紙に戻ったノートを前に、アオはもう一度、物語を語り直すことになる……。
*
そういえば、アニメは白い紙に「線を引く」ところから始まるのだった。とはいえ、アニメはただの「線」の集合体ではない。跳ね、舞い踊り、一瞬現れては、すぐに消える線の「残像」。その残像のなかにこそ、アオの、トゥルースの“生”は宿る。真実は線と線の間にあるのだ。
脚本/會川昇、絵コンテ/水島精二・長崎健司・村木靖・京田知己、演出/清水久敏、作画監督/藤田しげる・堀川耕一 メカ作画監督/水畑健二
(注)
「Febri」第14号掲載の『エウレカセブンAO』後編全話解説に寄せた文章。放映が校了まであとわずかというタイミングだったはずで、放映直後に急いで書きあげた。「ノートの真ん中に~」というのは、宇野常寛の評論『ゼロ年代の想像力』冒頭の議論を踏まえたもの。ただし、全くあさっての方向を向いた論旨になっているあたりが、どうにも……である。
『エウレカセブンAO』の物語は、言ってみれば、延々と「線」を引き直し続ける物語だった。沖縄と日本、人間とシークレット、そしてシークレットとスカブ……。こちら側とあちら側、自分が属する側とそうではない“敵”。そしてこの第23話でアオが対峙することになるのは、“世界の敵”となったトゥルースだった。スカブとシークレットの間に生まれ、そのどちらにも所属することができなかったトゥルース。彼は、自分の存在を許さない世界に対し、世界そのものを壊そうと試みる。
だが本当に問われなければならなかったのは、「線を引く」ことそのものの正当性だったのだ。トゥルースとの空中戦の果てに、アオはこう叫ぶ。「すべて決めて、分けられるものなのか。消えてなくなってゼロにして、それでおしまいなのかよ!」。
そうして物語は、2度目のクォーツガンの輝きとともに巻き戻される。再び白紙に戻ったノートを前に、アオはもう一度、物語を語り直すことになる……。
*
そういえば、アニメは白い紙に「線を引く」ところから始まるのだった。とはいえ、アニメはただの「線」の集合体ではない。跳ね、舞い踊り、一瞬現れては、すぐに消える線の「残像」。その残像のなかにこそ、アオの、トゥルースの“生”は宿る。真実は線と線の間にあるのだ。
脚本/會川昇、絵コンテ/水島精二・長崎健司・村木靖・京田知己、演出/清水久敏、作画監督/藤田しげる・堀川耕一 メカ作画監督/水畑健二
(注)
「Febri」第14号掲載の『エウレカセブンAO』後編全話解説に寄せた文章。放映が校了まであとわずかというタイミングだったはずで、放映直後に急いで書きあげた。「ノートの真ん中に~」というのは、宇野常寛の評論『ゼロ年代の想像力』冒頭の議論を踏まえたもの。ただし、全くあさっての方向を向いた論旨になっているあたりが、どうにも……である。
2013年6月13日木曜日
私たちはいつまでも「ガチか、ガチでないか」をめぐって、無駄なおしゃべりを続ける。
少し前にTLで話題になった「アニメにおけるリアリティ」につい て、ぼんやりと考えをめぐらせていて――これは、個人的な興味の 対象でもある70年代の高畑勲監督作品とも深く関係する事柄でも あるのだけれど、結局のところ、「本当のこと(リアリティ/写実 性でも、アクチュアリティ/迫真性でもいい)」というのは、(近 代においては?)宗教に近い機能を果たしていたのかもしれない、 と思う。
もちろんそこには、確固たる基準(何が写実的で、何が写実的でな いのか)を求めることはできなくて、でも曖昧模糊とした「本当ら しさ」というものはある。その中途半端なありようこそが、近代と いう時代の産物なのだろう、とはいえる。
だから私たちは、いつまでも「それがガチか、ガチでないか」をめ ぐって、無駄なおしゃべりを続ける。
たしかにそのアイドルグループのドキュメンタリー映画は「ガチ」 に見えた。彼女たちが真剣にステージに向かう、吐き気がしそうなほど緊張感に包まれた「ガチ」具合に、ぎょっとさせ られた。そこでは、「ガチ」であること――「本当らしく」見える ことにすべてが賭けられていた。涙を流して謝罪する映像の彼女は 、いかにも「撮影の直前に自分で刈った」ような、ザンギリ頭をし ている。……ここでも「ガチらしさ」がある基準として、円滑に機 能している。
「ガチ」というのは、もともと相撲用語(ガチンコ)だけれど、プ ロレスの世界に持ち込まれて、それがある種の「基準」として機能 するようになったのは、90年代に入った頃だっただろうか。いや 、80年代の中盤からその気配はあったかもしれない(第一次UW Fの設立が84年)。プロレスが本来の娯楽性を薄めて、「本当の 格闘技」を目指したのではない。「本当らしさ」が娯楽の一要素に なったのだろう。
ボードレールは「1859年のサロン」で、こんなふうに書いてい る。
芝居の書割を、うっとりと眺めて、恍惚とするボードレール。
たぶん私たちは問いの設定を変えるべきなのだろう。問うべきは「 それが本当のことなのか?」ではなくて、「その本当らしさは、い ったい何を目的としているのか?」なのだろう。
(※)峯岸みなみの謝罪騒動のときに、Facebookに書き込んだ文章(ちょっとだけ修正しました)。文中に出てくる「高畑勲監督作とリアリティの関係」については、藤津亮太が主宰するブロマガ「アニメの門ブロマガ」で連載中の、「“日常系”の再学習――70年代の高畑勲」で考察しています。じりじりと。これを書いたときよりは、ちょっとは前に進んでるかな……。 http://ch.nicovideo.jp/animenomon/blomaga/ar247686
もちろんそこには、確固たる基準(何が写実的で、何が写実的でな
だから私たちは、いつまでも「それがガチか、ガチでないか」をめ
たしかにそのアイドルグループのドキュメンタリー映画は「ガチ」
「ガチ」というのは、もともと相撲用語(ガチンコ)だけれど、プ
ボードレールは「1859年のサロン」で、こんなふうに書いてい
「私は透視画(ディオラマ)の方へ連れ戻されたいと希うのですが、その乱暴で度外れな魔術は、私に有無をいわせず一つの有用な錯 覚(イリュジオン)を突きつけることができるのです。私は、そこ に私にとってこの上もなく愛しい夢たちが芸術的に凝集されている のが見出されるような、何かしら芝居の書割を眺める方が好きです 。こうした物の方が、偽りであるがゆえに、真なるものに無限に近 いのです」。
芝居の書割を、うっとりと眺めて、恍惚とするボードレール。
たぶん私たちは問いの設定を変えるべきなのだろう。問うべきは「
(※)峯岸みなみの謝罪騒動のときに、Facebookに書き込んだ文章(ちょっとだけ修正しました)。文中に出てくる「高畑勲監督作とリアリティの関係」については、藤津亮太が主宰するブロマガ「アニメの門ブロマガ」で連載中の、「“日常系”の再学習――70年代の高畑勲」で考察しています。じりじりと。これを書いたときよりは、ちょっとは前に進んでるかな……。 http://ch.nicovideo.jp/animenomon/blomaga/ar247686
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