2013年7月20日土曜日

『エウレカセブンAO』第23話「ザ・ファイナル・フロンティア」

かつて村上春樹の小説『風の歌を聴け』の登場人物は、ノートの真ん中に1本の線を引いた。左側にはこれまでに得たものを、そして右側には失ったものを書きつける。……だが、本当はこう問わなければいけなかったのだ。「線を引く」ことにいったい、どれほどの意味があるのか? と。

『エウレカセブンAO』の物語は、言ってみれば、延々と「線」を引き直し続ける物語だった。沖縄と日本、人間とシークレット、そしてシークレットとスカブ……。こちら側とあちら側、自分が属する側とそうではない“敵”。そしてこの第23話でアオが対峙することになるのは、“世界の敵”となったトゥルースだった。スカブとシークレットの間に生まれ、そのどちらにも所属することができなかったトゥルース。彼は、自分の存在を許さない世界に対し、世界そのものを壊そうと試みる。

だが本当に問われなければならなかったのは、「線を引く」ことそのものの正当性だったのだ。トゥルースとの空中戦の果てに、アオはこう叫ぶ。「すべて決めて、分けられるものなのか。消えてなくなってゼロにして、それでおしまいなのかよ!」。

そうして物語は、2度目のクォーツガンの輝きとともに巻き戻される。再び白紙に戻ったノートを前に、アオはもう一度、物語を語り直すことになる……。



そういえば、アニメは白い紙に「線を引く」ところから始まるのだった。とはいえ、アニメはただの「線」の集合体ではない。跳ね、舞い踊り、一瞬現れては、すぐに消える線の「残像」。その残像のなかにこそ、アオの、トゥルースの“生”は宿る。真実は線と線の間にあるのだ。
脚本/會川昇、絵コンテ/水島精二・長崎健司・村木靖・京田知己、演出/清水久敏、作画監督/藤田しげる・堀川耕一 メカ作画監督/水畑健二


(注)
「Febri」第14号掲載の『エウレカセブンAO』後編全話解説に寄せた文章。放映が校了まであとわずかというタイミングだったはずで、放映直後に急いで書きあげた。「ノートの真ん中に~」というのは、宇野常寛の評論『ゼロ年代の想像力』冒頭の議論を踏まえたもの。ただし、全くあさっての方向を向いた論旨になっているあたりが、どうにも……である。

2013年6月13日木曜日

私たちはいつまでも「ガチか、ガチでないか」をめぐって、無駄なおしゃべりを続ける。

 少し前にTLで話題になった「アニメにおけるリアリティ」について、ぼんやりと考えをめぐらせていて――これは、個人的な興味の対象でもある70年代の高畑勲監督作品とも深く関係する事柄でもあるのだけれど、結局のところ、「本当のこと(リアリティ/写実性でも、アクチュアリティ/迫真性でもいい)」というのは、(近代においては?)宗教に近い機能を果たしていたのかもしれない、と思う。

 もちろんそこには、確固たる基準(何が写実的で、何が写実的でないのか)を求めることはできなくて、でも曖昧模糊とした「本当らしさ」というものはある。その中途半端なありようこそが、近代という時代の産物なのだろう、とはいえる。

 だから私たちは、いつまでも「それがガチか、ガチでないか」をめぐって、無駄なおしゃべりを続ける。

 たしかにそのアイドルグループのドキュメンタリー映画は「ガチ」に見えた。彼女たちが真剣にステージに向かう、吐き気がしそうなほど緊張感に包まれた「ガチ」具合に、ぎょっとさせられた。そこでは、「ガチ」であること――「本当らしく」見えることにすべてが賭けられていた。涙を流して謝罪する映像の彼女は、いかにも「撮影の直前に自分で刈った」ような、ザンギリ頭をしている。……ここでも「ガチらしさ」がある基準として、円滑に機能している。

 「ガチ」というのは、もともと相撲用語(ガチンコ)だけれど、プロレスの世界に持ち込まれて、それがある種の「基準」として機能するようになったのは、90年代に入った頃だっただろうか。いや、80年代の中盤からその気配はあったかもしれない(第一次UWFの設立が84年)。プロレスが本来の娯楽性を薄めて、「本当の格闘技」を目指したのではない。「本当らしさ」が娯楽の一要素になったのだろう。

 ボードレールは「1859年のサロン」で、こんなふうに書いている。

「私は透視画(ディオラマ)の方へ連れ戻されたいと希うのですが、その乱暴で度外れな魔術は、私に有無をいわせず一つの有用な錯覚(イリュジオン)を突きつけることができるのです。私は、そこに私にとってこの上もなく愛しい夢たちが芸術的に凝集されているのが見出されるような、何かしら芝居の書割を眺める方が好きです。こうした物の方が、偽りであるがゆえに、真なるものに無限に近いのです」。

芝居の書割を、うっとりと眺めて、恍惚とするボードレール。

 たぶん私たちは問いの設定を変えるべきなのだろう。問うべきは「それが本当のことなのか?」ではなくて、「その本当らしさは、いったい何を目的としているのか?」なのだろう。


(※)峯岸みなみの謝罪騒動のときに、Facebookに書き込んだ文章(ちょっとだけ修正しました)。文中に出てくる「高畑勲監督作とリアリティの関係」については、藤津亮太が主宰するブロマガ「アニメの門ブロマガ」で連載中の、「“日常系”の再学習――70年代の高畑勲」で考察しています。じりじりと。これを書いたときよりは、ちょっとは前に進んでるかな……。 http://ch.nicovideo.jp/animenomon/blomaga/ar247686

2013年5月25日土曜日

「鏡」としての『攻殻機動隊』 ――2つの映像作品をめぐって

 士郎正宗のコミック『攻殻機動隊』を原作とした映像化作品には、大きく2つのシリーズが存在する(公開目前となる黄瀬和也総監督の『攻殻機動隊ARISE』は、いわば3番目のシリーズとなる)。まずひとつ目は、押井守監督による劇場作品『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(95年、以下『GHOST IN THE SHELL』)および、その直接の続編にあたる『イノセンス』(2004年)の2本の映画作品。ふたつ目が、神山健治監督によるテレビシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(2002~03年)と続編の『2nd GIG』(2004~05年)、そしてテレビシリーズの成功を踏まえて制作された長編作品『Solid State Society』(2006年)である。本稿では、これら2つのシリーズと原作がどのような関係にあるのか、簡単に振り返ってみたい。

 押井守監督の『GHOST IN THE SHELL』のベースとなっているのは、原作の第1巻である。冒頭に置かれたプロローグ、電脳ハッキング事件を追う第3話「JUNK JUNGLE」と人形使い事件を扱った第9話「BYE BYE CLAY」、そして第1巻の締めくくりとなる第11話「GHOST COAST」といったエピソード群が、いくつかの重要な改変を加えられながら、本編中に織り込まれている(例えば、高層ビルから飛び降りた草薙素子が光学迷彩を起動させ、ゆっくりと摩天楼に溶け込んでいく場面――『GHOST IN THE SHELL』を代表するといっていいこのアクションは、原作第1巻の冒頭のシーケンスを映像化したものだ)。
 また原作から引かれているセリフが多いのも、この映画版の大きな特徴だろう。本作のイメージを決定づけたといってもいい、素子の「そうしろとささやくのよ、私のゴーストが」「ネットは広大だわ……」といったセリフはもちろん、映画のクライマックスであり、また原作の白眉のひとつでもある素子と人形使いの対話(p333)は――前後のシチュエーションは異なるものの、かなり原作に忠実な形で用いられている。
 言い換えれば、この映画で押井が試みたのは――彼の代表作である『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』(84年)がそうであったように――いわば「原作のエッセンスを取り出しながら、自分の文脈に引きつけ昇華すること」だったといえる。そしてそのエッセンスを具体的に指すならば、「生物と無生物の間に境界線を引くこと」をめぐる思弁だった。
 そしてその中核に位置しているのが、原作でも重要な役割を演じる・謎のテロリスト「人形使い」である。ネットワークのなかでいつの間にか生まれた「自意識(のようなもの)」という設定の彼(?)は、広大なネットの海を泳ぎまわり、いくつもの義体を乗っ取りながら、テロ事件を巻き起こす。
 本来ならば、無生物であるはずのものが、突然、まるで生きているもののように振る舞うこと。人間の意識(GHOST)が情報の塊なのだとすれば、身体(SHELL)という不自由な檻を脱ぎ去り、情報の大海=ネットワークへと溶け込むことも可能なはずだ……。
 しかもそうした思弁は、原作第1巻のラストと『GHOST IN THE SHELL』のラストにおいて、それぞれまったく異なった相貌を見せる。そのきっかけとなるのは、融合を求める人形使いに対して素子が発するある質問だ。
 「なぜ私を選んだの?」。その質問に対して、原作の人形使いは「エン(縁)があったからだ」と応える。思わず素子が「ネット内に仏教辞典でも持ってるの?」と突っ込んでいるように、原作では思弁がガジェットの比喩(別種のイメージ体系)のなかで解消され、止揚される。ひとつの思弁が別のイメージに置き換えられ、それが延々とコピー&ペーストされるような……。士郎による原作版の続編『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』は、まさにそのような無尽蔵な増殖の物語/物語の増殖として読むことができる。
 対して『GHOST IN THE SHELL』がここで持ち出すのは「鏡の理論」である。素子と人形使いは、本人と鏡像のようによく似ている。生物のように見える無生物(人形使い)と、無生物のように見える生物(素子)。情報の海から生まれた身体を持たない生命体と、偽物の身体(義体)のなかに情報を埋め込んだ女……。外見がよく似た2人が、カットバックによって繋ぎ合わされることで、まるで互いが鏡のなかを覗き込んでいるような、そんな印象がことさらに強調される。
 そしてそれを突き詰めた先に待っているのが、素子のパートナー・バトーのセーフハウスでのラストシーンだ。カメラがゆっくり近づいていく先に置かれた子供の人形。物言わぬ人形のように見えた「それ」が、じつは新たな素子の身体(義体)だったことが明かされる瞬間、私たちは言いようのない不安に突き落とされる(原作とは異なる、リアリティのあるキャラクターデザインおよび描写も、そうした印象を強める)。
 アニメーションの基礎をなしているのは「ただの絵=無生物」だ。それが動くことで、私たちは「ただの絵」がまるで「生きている」かのように錯覚する。「生物と無生物の境界」をめぐる問いを、単に思弁(物語)においてだけでなく、映像のレベルにおいても徹底すること。押井が『GHOST IN THE SHELL』のラストで行き着いた場所――そしてその10年後に制作した続編『イノセンス』において再び試みたのは、そうした問いを徹底させることだったのだ、といえる。

 ではもう一方の『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(以下、SAC)』は、いかなる作品だったのか。神山監督が語るようにこの『SAC』は、原作や押井の『GHOST IN THE SHELL』に対して「親戚ぐらいの距離感」の作品として構想された(公式ムック『SECTION-9 FILE:BOOK』所収の、押井守との対談より)。そのとき具体的にベースになったのが、1990~96年にかけて散発的に発表された「公安9課の日常」を扱った短編群である。
 これらの短編群は、のちに『攻殻機動隊1.5 HUMAN ERROR PROCESSER』としてまとめられることになるが、いわば事件の発端から解決までを描く「刑事ドラマ」としての『攻殻機動隊』に着目したのが、この『SAC』だといえる(また脚本陣のひとりとして本作に参加した佐藤大は、最終的に「笑い男事件」へと収束していくシリーズ全体の構成について、『ER』や『ホミサイド』『NYPDブルー』といった海外のテレビドラマを念頭に置いていたと語っている。公式ムック『Official Log2』に所収のインタビューを参照のこと)。
 いわば押井の『GHOST IN THE SHELL』が、原作のエッセンスを映像という形で昇華してみせたとすれば、『SAC』は原作のキャラクター配置と要素をもとにしながら、まったく異なるドラマを組み上げることに主眼があった(そうした理由からか、原作がそのまま使われている部分はほとんど存在しない)。
 そしてこの変更の鍵を握るのが、テレビシリーズの冒頭に置かれた次のセリフだ。
 「電脳化が一般化され、情報ネットワークが高度化するなかで、光や電子として駆け巡る意思を一方向に集中させたとしても、「孤人」が複合体としての「個」となるまでには情報化されていない時代」。原作の冒頭に置かれた「企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても、国家や民族が消えてなくなる程、情報化されていない近未来」をもじったものだが、注目すべきは「「孤人」が複合体としての「個」となるまでには情報化されていない」という一文だろう。
 ここでは、原作や『GHOST IN THE SHELL』が描いていたものが「複合体としての「個」」――ネットワークの海に溶け込んだ素子――だったことを踏まえつつ、そうなる前の時代、「孤(独な)人」がまだ存続しえた時代を舞台にしていることが宣言される。
 それはこの宣言はまた、『SAC』とその続編『2nd GIG』が、人と人とのコミュニケーション(の不可能性)を描き出そうとしていた、その理由を明らかにしてくれる。
 『SAC』では、犯人(笑い男)がきっかけを作っただけで、次々と模倣犯が現れ、それらが「社会的正義」を行使する様が描かれる。「群れ」になった人間の醜さとそこから「孤立」しようとする者の孤独。一方の『2nd GIG』では、難民に対する社会的な差別・排除と、そこに疑問を感じ、ひとり立ち上がるテロリスト・クゼの姿が描かれる。クゼが同じ志を持つ者として素子を求める場面は、人形使いと素子の関係に極似しながら、決定的にロマンティックだ(また『2nd GIG』の第11話「草迷宮」において、今まで決して語られることになかった素子の過去と思しき場面が描かれるのもこのシリーズならではだろう)。
 そうしたロマンティシズムは、シリーズ2作を踏まえて制作された長編『Solid State Society』にも――特に、娘の命を救うために身を投げ出そうとするトグサのシーンに、色濃く受け継がれている。そこでは「手をつなぐ/離すこと」が、人と人との「絆」の象徴として、ドラマティックに描き出される。こうした――ある意味、エンタテインメントに徹した展開は、原作にも『GHOST IN THE SHELL』にもありえなかったものだろう。そしてまたそのエンタテインメント精神は、本作をもとにした衣谷遊によるコミカライズにも、しっかりと引き継がれている。

 『攻殻機動隊』という同じ原作をもとにしながらも、独自の展開を見せる2つのシリーズ。それぞれ、監督の個性が十二分に発揮されたシリーズだと言うことができるが、それはまた言い換えれば、『攻殻機動隊』がそれだけの度量を持ち、また作り手の意図によってさまざまに風貌を変える――まさに「鏡」のような作品であることを、私たちに示唆しているのかもしれない。


(注)
「SFマガジン」2013年7月号「攻殻機動隊」特集に寄せたもの。編集部からは、士郎正宗の原作について概要をまとめてほしいという発注だったが、何を勘違いしたか、映像作品と原作の関係について書いてしまった。実際にはリテイクの上、発注に沿った第2稿が掲載されている。

2012年7月8日日曜日

『エウレカセブンAO』第6話「ライト・マイ・ファイアー」

ゲネラシオン・ブルへと向かう道路の中央分離帯を、ひとりの少年が歩いてくる。ふと立ち止まると、指を拳銃の格好に構えて、狙いをつける。「バーン」。少年がそう呟くと同時に、道路の先にあった警備室が音を立てて爆発する。
「何者だ」。負傷した警備員が声をかけた相手は、すでに少年から中年の戦士へと姿を変えている。横切る煙とともに、彼は美女に、そしてサラリーマン風の東洋人へと姿を変える。そして彼(彼女)は、再び巻き上がる爆炎とともに、こう告げる。「あえて名乗るなら俺の名は……今このときから、トゥルース(真実)だ」。

第6話「ライト・マイ・ファイアー」の最後のシークエンス――主人公・アオの敵となるであろう謎の男“トゥルース”が、初めて自分の名前を名乗る場面を見ていて思いだしたのは、『UN-GO episode:0 因果論』の世良田蒔郎――というよりは、彼が日本に連れてきた人知を越えた存在“別天王”のことだった。
もちろん、『因果論』の脚本を手がけた會川昇が『エウレカセブンAO』に参加している(肩書きはストーリーエディター)ことが、この連想の裏にはある。しかし、誰かの姿になりすますことの呪わしさ、そしてなにより、その呪わしい彼が「自分こそが真実(トゥルース)である」と主張することが、2つの作品を結びつけたのだと思う(ちなみにこの第6話の脚本は、猪爪慎一による)。



『UN-GO 會川昇脚本集』に収録された初期プロットによると、會川は当初、『UN-GO』の主人公・結城新十郎をテレビ局員に設定しようとしていた。最終的にそのプランは放棄され、新十郎は「最後の名探偵」を自称する――言い換えれば、アイデンティティ喪失者として描かれ、そしてそのことは『UN-GO』に少しばかりデカダン風味を付け加えることになるのだが、いずれにしろ、會川は『UN-GO』のなかでたびたび、「メディア」をめぐる問題を取り上げている。
劇中に顔を出す「新情報拡散防止法」は、まさにネットワークという「メディア」に政府が介入する方策を定めたものだし、また第2話「無情のうた」では、メディア上から抹殺されたアイドル(偶像)をめぐる事件が描かれる。そもそも、新十郎に相対するもうひとりの探偵、海勝麟六は、巨大ネット複合企業の総帥でもある。

なにより象徴的なのは、『因果論』およびテレビシリーズ終盤に登場し、本シリーズ最大の敵として新十郎の前に現れた“別天王”だろう。幼い子供の姿をした彼(?)は、世良田とともに帰国した後、日本を戦争へと駆り立てるために、テレビや新聞など、マスメディアを通して偽の情報を流し続ける。しかも別天王自身には、悪意も善意もない。彼女は、術者が口に出したことを「真実」にしてしまう――たとえ、事実がそうでなかったとしても、彼女を通せば、若者たちはテロリストに拉致され、殺されたことになってしまうのだ。

それは、まさに私たちの知っている「メディア」そのものの姿にほかならない。

そもそも「メディア(媒体、媒介物)」とは何か。字義的には、情報の仲立ちをするもの、ということになるだろう。事実そのものではなく、事実を誰かに伝えるための「手段」。そこで、事実は(そこに含まれる情報は)劣化し、歪められ、物語化されて、伝えられる。
メディアが伝えるものが――媒介というその性質そのものによって――「本当のこと」から変質してしまう、ということ。というよりも、「変質してしまっているのではないか?」と、受け取った人が感じてしまうこと。わたしたちはそのような状況に、どのように立ち向かうことができるのか……。これこそ、『UN-GO』が一貫して問題にしていた、隠されたテーマのひとつだったように思う(ちなみに、結城新十郎と行動をともにする因果は、無理矢理、相手から「真実」を引き出してしまう“怪物”である。彼は、媒介(メディア)抜きで、真実へとたどり着いてしまうのだ)。

(※またトゥルースに囚われたナルは、巫女の能力を持っているらしいことが示唆されている。「巫女」は、英語で「ミディアム(mediam/メディアの単数形)」である)



『エウレカセブンAO』について書くつもりが、随分と寄り道をしてしまった。つまるところ、別天王が「メディア」であるとしたら、トゥルースは「われこそが真実だ」と主張する者である。その2つは、よく似ているようでまったく違う。なによりトゥルースは、ガゼルたちの属する世界が虚偽であることを告発し、シークレットたちが巻き起こす騒乱に、そしてなにより、「もうひとつの世界からやってきた」宇宙人、フカイ・アオに「真実」を見る。

しかも第12話では、空から垂直に世界を貫き、スカブコーラルを発生させる「光」が、「もうひとつの世界」からやってきたものらしいと示唆される。トゥルースの言葉をそのまま鵜呑みにするならば、『エウレカセブンAO』の世界は「偽物」であり、天から降り注ぐ光の向こうにこそ、「真実の世界」があるのだ(しかも第11話のエレナの回想のなかで、その「真実の世界」が最初のテレビシリーズと繋がっているらしいことが推測される。月面に刻まれたエウレカ&レントンの文字!)。

……だが、それは「本当」だろうか? ここで私たちは、劇場版『ポケットが虹でいっぱい』を思い出すべきだろう。
テレビシリーズの素材を使いながら、まったく異なる「エウレカとレントン」の物語を紡いだこの劇場版では、「ただひとつの正しい物語」があるのではなく、「いくつもの物語がそれぞれに共鳴しながら軌跡を描く物語」が描かれたのではなかったか。「ただひとつの真実」ではなく、いくつかの(それぞれが物語として語られた)出来事が、互いに衝突し、ひとつの場=作品をつくること。
トゥルースという、これまでの『エウレカ』にはなかった存在の、あまりに魅力的な振る舞いを見ながら、『エウレカセブンAO』は、なにかそういう場所を目指しているような、そんな予感がする。
脚本/猪爪慎一、絵コンテ/成田歳法・村木靖・京田知己、演出/三浦陽、作画監督/永作友克・嘉手苅睦。

2012年5月12日土曜日

『坂道のアポロン』第5話「バードランドの子守唄」

『坂道のアポロン』を観るのは、「光」と「影」の愉楽に身を委ねる体験でもある。

この作品ではすべてのシーンで、キャラクターの影(とハイライト)にグラデーション処理がかけられている。それゆえに画面全体がソフトフォーカスがかかっているような、柔らかな印象になっているのだが、しかしより大切なのは、その「グラデーション処理」によって、各シーンごとに設定されている「光」の演出に、自然と意識が向くよう、仕掛けられていることにある。
例えば、カーテンの閉められたムカエレコードの店内は薄暗く、でもカーテンの向こう側には淡い太陽の光が射している……というように。あるいは、蛍光灯のついていない教室に差し込む、鮮やかな太陽光。そして、母親との再会の場面として誂えられた銀座のレストランの、温かな光。影と光の境目をぼかすことで、むしろ巧妙に配置された影と光の美しさに、思わずうっとりする。
特にこの第5話のように、「演奏シーン」というスペシャルカットのない、逆に言えばただただリッチなシーンがない回だと、その「光」と「影」の交差はより一層強く印象に残る。

そして、この第5話の基本をなしているのは、「2人とひとり」という構図の繰り返しにある。
薫と千太郎の妹の会話を聞く律子、そして薫と律子の会話を盗み聞きしてしまう千太郎。あるいは、レコードプレイヤーの前に座る千太郎と百合香に対して、後からそこに加わる淳一。あるいはまた、東京駅のホームで待っている薫の母と千太郎に対して、遅れてやってくる薫……。
繰り返し出てくる「2人とひとり」の構図が、数珠繋ぎのようにエピソードを繋いでいく。
脚本/加藤綾子、絵コンテ/宮繁之、演出/山岡実、作画監督/青木一紀。

『AKB0048』第2話「選ばれし光」

悪くない。

どこかで何かが決定的にずれ、失調しているような気がしてならないのだけれど、それでも「悪くない」と思わされてしまうのは、この『AKB0048』という作品が絶妙なところで「悲劇」と「メロドラマ」をバランスさせているからなのだろう。

「メロドラマ」とは、端的に言えば「人間たちのドラマ(劇)」である。メロドラマは登場人物たちの感情を燃料に、それが到達できる最長不倒距離を目指して、ただひたすらに、地平線の向こうへと(水平に)ドライヴしていく。
一方、「悲劇」とは「世界をめぐるドラマ (劇)」である。ある意味、それは世界の「原理」をめぐって交わされる怒りと抵抗の交差であり、また天から垂直に射す光、希望と歓喜の力をめぐる詩でもある。

『AKB0048』において、AKBは人知を越えた――言葉通りの「偶像」の位置にある。彼女たちは「目指すべき高み」に君臨する存在であり、また人々の欲望を「上」から照らす光として描かれる。

先日、大田俊寛『オウム真理教の精神史』を読んでいて、そこでは「神」の起源を、共同体を支える「虚構の人格」にあったのだ、と述べられていたのだが、その意味において、この作品におけるAKBはまさにフィクション(虚構)として、人々の「希望の光」なのである。
そして、この世界において「芸能」が禁止されているのは、故ないことではない。
「芸能」は単なる、余暇を埋める手遊びなどではなく、人々の生を祝福する、なくてはならない「光」であり、それゆえに、この世界を律している政府(あるいは国家)は、その充溢した力を恐れ、AKBを「テロリスト」と認定するのである。

そんなふうに考えると、AKBの襲名メンバーたちがズラリと並んだ姿は、どこか曼荼羅のようにも見えるてくるから、不思議だ。
また第2話で登場した園智恵理をAKBへと導いていく、小さな光の生物は、まるで「天使」のように見える。光を発し、少女たちを「芸能」へと導いていく存在。それは、AKBに人知を越えた力を授け、また周囲を明るく照らし出す。
……と、ここだけ抜き出せば、『AKB0048』はまるで、聖書にでも出てきそうな「悲劇」のように見える。がしかし、決してそんな「悲劇」へと物語は集約しない。例えば第1話では、少女たちの旅立ち――新たな場所へ向かうことの不安と期待が描かれ、また第2話のメインモチーフとなっているのは、主人公・本宮凪沙と智恵理の再会、そしてライバル関係が暗示される。
そこで描かれているのは、ほとんど、どこかで見たことのあるドラマのクリシェである。徹底的に人間のドラマ――そう、「メロドラマ」が『AKB0048』の主軸にはある。

このバランスを欠いたバランス。

脚本・シリーズ構成としてクレジットされている岡田麿里の、メロドラマの書き手としての能力の高さは疑うべくもない(『あの花』を観れば、誰もが納得するように)。しかし彼女のメロドラマの書き手としての力は、時としてあからさまな失調を見せることがある。例えば、『ブラック★ロックシューター』は、少女たちのメロドラマとして描かれながら、いざ「世界の原理」に語りの局面が差し掛かった途端に、物語の像を曖昧なものにしてしまう(実際は、それほど複雑な話ではないはずなのだが)。

そうやって考えると、たぶん『AKB0048』の「悲劇」を担い、またこの物語を垂直の光に照らし出しているのは、河森正治なんじゃないかという気がする。なにせ、世界を神々の闘争の場として描くときに、途轍もない力を発揮する人だ。『アクエリオンEVOL』もそうだけれど、彼と岡田という組み合わせは、この「悲劇とメロドラマのアンバランス」を召喚しているような、そんな感じがする。
脚本/岡田麿里、絵コンテ/河森正治・平池芳正、演出/水本葉月・高島大輔・筑紫大介、作画監督/小倉典子・今西 亨・杉村友和。

2012年5月3日木曜日

『AKB0048』第1話「消せない夢」

うわ、なにこの美術の情報量の高さ!
細やかな光の使い方も上手いけど、背景で「荒廃してるけど、人の生が根付いている未来社会」をしっかり描いてみせてる。すごい。

ただ、キャラがふわっふわなので、えらく浮いて見える。特に鍵になるのは頭と瞳のハートマークで、言い換えると、あのハートマークは「聖痕」として機能してる。彼女たちがアイドル(=AKB)となるべく運命付けられている存在だ、とデザインの時点で告げてる、っていう。

それは、彼女たちがこの「荒廃した未来社会」において「特別な存在であること」を端的に示してるわけなのだけれど、困ったことに第1話は、そんな彼女たちが「AKBのオーディションに合格するかどうかわからない」ことが、メインの主眼に据えられてる。
でも、こういうデザインを施されている時点で、オーディションに無事、合格することはほとんど確定しているわけで(ここで裏切られたら、そもそもあのデザインは何だったの? って話になる)、オーディションへの不安は作劇の前提として成立してなくね? って気がする。
ハリソン・フォードは死なない問題、ですね。

まあ、デザインと脚本は別々に進行してることが多いので、 こういう事態を招いてるのかなあという気もするんですが。

あ、あとほぼ同じ座組みで進行している『アクエリオンEVOL』も、似たような(リアリティのある美術で、近未来の社会を描く)志向性の作品なんだけど、美術の肌触りがなんか違う。それぞれ美術を担当しているスタジオが、『AKB0048』はスタジオイースター、『アクエリオン』が美峰という違いはあるんだけど、たぶんそこじゃなくて、美術が描こうとしている「対象」が違うから……だろうか?
『AKB0048』においては、「社会の暗さ(と、そこから飛び立とうとする少女たちの明るさ)」が、そのままコントラストの強い背景に反映している、というか。まあ、『AKB』の美術は、暗いというより「濁っている」という感じなのだけれど。
脚本/岡田麿里、絵コンテ/河森正治・平池芳正、演出/高島大輔、作画監督/山田裕子・長坂寛治。